脱亜論とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 学問 > 学術 > 論説 > 脱亜論の意味・解説 

脱亜論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/15 15:46 UTC 版)

脱亜論』(だつあろん)は、福沢諭吉が執筆したと考えられている社説。最初に掲載された1885年(明治18年)3月16日の新聞『時事新報』紙上では無署名の社説である。1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録された[1]ため、それ以来、福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった[2][3][4]


注釈

  1. ^ 丸山(2001)、282-283頁。
     福沢が、一八八五年の時点でただ一回、「脱亜」の文字を用いて書いた『時事新報』の短かい社説は、その直前の一八八四年十二月に、李氏朝鮮で勃発ぼつぱつ した「甲申こうしん 事変」とそのクーデターの短命な崩壊の衝撃の下に執筆された。(中略)甲申の政変が文字通りの三日天下に終わったときの、福沢の失望は甚大であり、またこの事件の背後にあった日本及び清国政府と李氏政権とが、それぞれの立場から、政変の失敗を日和見ひよりみ 主義的に傍観し、もしくは徹底的に利用した態度は福沢を焦立いらだ たせるに充分であった。「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない。 — 丸山眞男、丸山(2001)、282-283頁。
  2. ^ 丸山(2001)、281-282頁。
    福沢は明治十八年(一八八五)三月十六日の『時事新報』の社説を「脱亜論」と題し、そこで「脱亜」の論旨を展開した。これが論説の表題として、また社説の内容に、彼が「脱亜」の文字を使用した唯一のケースであって、それ以後、彼のおびただしい著書・論文の中で、この言葉は二度と用いられていない。ということは、少なくも、「脱亜」という言葉が、福沢において「自由」「人権」「文明」「国権」「独立の気象」といった言葉と並ぶような、福沢のキー・ワードでなかったことを物語っている。「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」という成句もまた)、福沢はかつて一度も用いたことがなかった。 — 丸山眞男、丸山(2001)、281-282頁。
  3. ^ 西川(2003)、402頁。
     それ〔注:「脱亜論」のこと〕は、十七年十二月初めの独立党によるクーデタ(甲申こうしん 政変といわれる)が日本部隊の撤退と清国軍の介入によって「三日天下」に終わり、朝鮮開化の望みが消え去ったのちに「韓支」両国に対して福澤の書いた絶交状であり、西欧帝国主義から自国の独立をまもるために「脱亜」するという宣言文であった。この短い(およそ二、二〇〇字の)論説一篇をもって、彼を脱亜入欧主義の「はしり」であると見るのは短絡であり、当時の東アジア三国のあいだの相互関連を適切に理解していない見方である。なぜ福澤は「脱亜論」を書くに至ったのか、十五年の壬午軍乱、十六年における啓蒙への助力、十七年の仏清戦争、そして甲申政変の挫折といった朝鮮内外における事件の連鎖と対応させて、福澤の言説の流れを追って見る必要がある。 — 西川俊作西川(2003)、402頁。
    395ページからの西川による解説のうち、特に401頁「福沢諭吉にとっての朝鮮問題」以降を参照。「脱亜論」前後の時事新報諸論説がコンパクトに解説されている。
  4. ^ a b 坂野(1981)、336-338頁。
    甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗したことは、福沢にとっては、朝鮮問題に関する明治十四年初頭以来の状況構造が根底から変化したことを意味した。このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求することは無意味であることを宣言するために「脱亜論」を書いたのである。
     これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない。侵略的といえば、福沢は壬午事変から甲申事変にかけてのいわゆる「アジア改造論」時代において、もっとも侵略的であった。ただしこの侵略的政策論は、あくまでも朝鮮国内における改革派の存在という前提があっての上でのことであった。反対にこの前提がなくなった時の福沢の「脱亜論」は、当面朝鮮問題における清国との対決を避けるという点では、日清間の一時休戦協定である同年四月の天津条約体制とむしろ合致するものであった。この点においても、我々は福沢の状況認識能力と情報収集能力を過小評価すべきではないであろう。 — 坂野潤治坂野(1981)、337-338頁。
    331-335頁の4章における「アジア改造論」の解説と、336-338頁の5章における「脱亜論」の解説を参照。
  5. ^ 北岡(2011)、255頁。
    福沢の有名な「脱亜論」は、天津条約の発表に至らない明治十八年三月十六日のものであった。そこで福沢は、日本はすでに遅れたアジアの域を脱している、それに比べ、中国と朝鮮の二国は儒教流から変わることがなく、西洋文明を取り入れようとしない。このままでは西洋諸国の分割の対象となるかもしれない。日本は隣国の開化を待ってともにアジアを興す余裕はない、「寧ろその を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ」、悪友を親しむ者は悪名を免れられない、われわれは心中でアジア東方の悪友を謝絶しよう、と主張した。ここで「処分する」という言葉が、あるいは侵略を意味するかのように取られる可能性がある。しかしその当時の状況では、侵略ということは日程には上っておらず、ここでは、西洋と同じマナーでアジアと交際するというだけのことである。むしろここで福沢が言っているのは、日本は朝鮮を独力で文明開化に導き、特殊密接な関係を作りあげたいという明治十四年以来の構想を断念したということであった。むしろ、朝鮮の文明開化に熱中した福沢の敗北宣言(坂野潤治ばんのじゅんじ )であった。 — 北岡伸一北岡(2011)、255頁。
  6. ^ 清水(2006)、229-230頁。
    福沢は、日本国は文明国をめざすべきだ、と主張しているのだ。日本は文明国だから、中国、朝鮮を支配していい、なんて考えておらず、当然のことながらそんなことは書いていない。むしろ、西洋列強の野望渦巻く苛烈な国際情勢下で、ひとり先に文明開化した日本が独立をまっとうせんがためには致し方なく中国、朝鮮とたもと を分かたなければいけない……それが脱亜という選択肢である、という文脈だ。どう読んでみても、『脱亜論』をもって福沢をアジア侵略主義者だとすることは不可能である。その二国への見方が厳しく、冷たいな、というのは事実だが、それは文明国をめざすという方針に照らしたところでの批判としてのことだ。福沢がその二国を蔑視しているとは読めないのである。 — 清水義範清水(2006)、229-230頁。
    「八、ついに福沢諭吉の最大の謎にぶつかる章」の224-235頁を参照。
  7. ^ 西川(2003)、421-422頁。
    最後に、「脱亜論」の文中には「ただ 脱亜の二字在るのみ」とあって「脱亜入欧」の四字は使われていないことに注意すべきである。「脱亜」の二字は在ロンドンの「特別通信員 豊浦生」(日原昌造、認定卒業生)が送稿してきた「日本は東洋国たるべからず」(十七年十一月十一、十三、十四日社説)において興亜会に対し、それどころか「脱亜会」という会を設けるべきだという風に使われているもので、そこには膨張主義的な志向はみられず、むしろ逆に西欧帝国主義の侵略から独立を守るために「脱亜」すべき=開化、文明化すべきだという考えが含まれていたのであり、福澤もその意味でこの言葉を使っていたのである。 — 西川俊作西川(2003)、421-422頁。
  8. ^ 林思雲 「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」の第六段落、第七段落、第八段落、第九段落に、興亜論の簡易な説明が掲載されている。当時の考えに直接当たるのであれば、樽井藤吉著『大東合邦論』がある。アジア主義も参照。
  9. ^ 平山(2006)、34-40頁。
    私は、中国人による福沢批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない、ということに、うかつにも気づいていなかった。彼らが独自に福沢の思想を分析し、歴史的に位置づけたうえで、福沢を批判していると思いこんでいたのだ。しかし今でははっきりこういうことができる。彼ら中国の福沢批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福沢研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総遠山茂樹安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福沢を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。 — 平山洋平山(2006)、34-40頁。
  10. ^ 小川原(2011)、208頁。
    いまや「脱亜論」は、中国や朝鮮において「侵略主義者・福沢」とセットになって批判的に取り上げられるのが一般的になっているといえよう。筆者も平成二十二年十一月に北京大学で講演し、福沢の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福沢には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然としたことがある。 — 小川原正道小川原(2011)、208頁。

出典

  1. ^ a b 福澤(1933c)、40-42頁。
  2. ^ a b c 東谷&平山(2005)、64-79頁。
  3. ^ 平山(2002a)、65-100頁。
  4. ^ a b 平山(2002b)、40-42頁。
  5. ^ a b 遠山(1951)
  6. ^ 遠山(1992)
  7. ^ a b 平山(2004)、193-230頁。
  8. ^ 平山(2004)、195-196頁。
  9. ^ a b c d 稲葉(1987)、209-225頁。
  10. ^ 福澤(1933a)、69-72頁。
  11. ^ 福澤(1970a)、334-337頁。
  12. ^ 福澤(1926)、439-451頁。
  13. ^ 福澤(1970b)、497-506頁。
  14. ^ 慶應キャンパス新聞(2007-01-10)
  15. ^ 丸山(2001)、285-286頁。
  16. ^ 遠山(1992)、32-33頁。
  17. ^ 坂本(1997)、216頁。214頁から217頁までの「「脱亜論」をどう読むか」を参照。
  18. ^ http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html
  19. ^ http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua1.html
  20. ^ 「奴隷の群衆」「牛馬豚犬」…"元祖ヘイトスピーカー"としての福沢諭吉を徹底検証~岩上安身によるインタビュー 第455回 ゲスト 名古屋大学名誉教授・安川寿之輔氏 | IWJ Independent Web Journal
  21. ^ 平山(2008)、343頁。
  22. ^ 金(2005)
  23. ^ 井田(2001)、82-85頁、239頁。高橋義雄起草・福沢諭吉加筆または福沢諭吉単独執筆が展開されている。
  24. ^ a b 平山(2004)、81頁。
  25. ^ 平山(2004)、80-81頁。
  26. ^ 井田(2001)、104頁。
  27. ^ 井田(2001)、105頁。
  28. ^ 平山(2002a)、65-100頁の文章が元になっている。
  29. ^ 平山(2004)、82-85頁、193-239頁。
  30. ^ a b 平山(2004)、203頁。
  31. ^ 平山(2004)、204-208頁。
  32. ^ 平山(2004)、209-210頁。
  33. ^ 服部(1952)
  34. ^ 平山(2004)、214頁。
  35. ^ 服部(1953)
  36. ^ 平山(2004)、217頁。
  37. ^ 平山(2004)、218頁。
  38. ^ 鹿野(1956)
  39. ^ 福澤(1970d)、238-240頁。
  40. ^ 飯塚(1960)、2頁。
  41. ^ 平山(2004)、219-220頁。
  42. ^ 竹内(1961)
  43. ^ 平山(2004)、220-224頁。
  44. ^ 平山(2004)、221-222頁。
  45. ^ 竹内(1963)
  46. ^ 河野(1967)
  47. ^ 鹿野(1967)
  48. ^ 平山(2004)、224-225頁。
  49. ^ 平山(2004)、226-227頁。
  50. ^ 平山(2004)、227頁。
  51. ^ 平山(2004)、82-85頁、239頁。
  52. ^ asahi.com:朝日新聞 歴史は生きている
  53. ^ 「福沢諭吉関係新資料紹介」『近代日本研究』第二十三巻(慶應義塾福澤研究センター、2006年),252-253頁。
  54. ^ 都倉武之「解説 時事新報論説研究をめぐる諸問題」青木功一『福澤諭吉のアジア』(慶應義塾大学出版会、2011年),p.448。
  55. ^ 尤一唯「初期『時事新報』の清国論説の一分析」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』第58号、2018年,p.147。
  56. ^ 屋山太郎 華夷思想に棹差す「東アジア共同体」構想―同化できない日本文明と中華文明―
  57. ^ 西村幸祐渡辺利夫など






脱亜論と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「脱亜論」の関連用語

脱亜論のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



脱亜論のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの脱亜論 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS