「脱亜論」掲載前の論説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 10:19 UTC 版)
ウィキソースに朝鮮独立党の処刑の原文があります。 「脱亜論」の約3週間前の1885年(明治18年)2月23日と2月26日に掲載された論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」がある。この論説では、甲申政変後に金玉均、徐載弼、徐光範ら開化派の三親等が全て残忍な方法で処刑されたことを非難している。(ただし、金玉均の妻子は後に発見された。) 平山洋は『福沢諭吉の真実』において、「脱亜論」がこの論説(後編)の要約になっていると主張している。また、次の記述が「脱亜論」にも影響を与えたのではないかと指摘している。 人閒娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも、寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云わんと欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏にして、其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣國に居り、固より其國事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも淚落ちて原稿紙を潤おすを覺えざるなり。 — 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、 朝鮮独立党の処刑(後編)
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