「脱ダム」宣言
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「脱ダム」宣言は、2001年2月20日に公式に発表された。ゼネコン主導の乱開発を否定するものとして多くの好意的な反響を呼んだ。その後、学識経験者などからなる治水・利水ダム等検討委員会が発足し、ダム計画のある河川の部会ごとに、ダムの必要性を徹底的に調査、審議した。政府から降りてくる公共事業費に頼りきりの体質を改善しようとする試みだが、これは県内の建設業界、県議会議員の多くから激しく批判されることとなった。しかし治水・利水ダム等検討委員会が出した答申は、「ダムあり案」・「ダムなし案」の両案付記となり、特に浅川では、その後発表された計画が堤高30mから45mの堰堤を有する「河道内遊水池」と称する実質「ダム」であると批判され取り消した。 その後、暫定案として、本来は100年に1度の洪水に対応する治水計画を立案するところを、50年に1度の洪水の対応となる計画として、既存の2箇所の溜池を改修し、貯留能力を持たせること(堰堤が15m未満は法律上ダムとならないため)を中心とした治水計画を発表したが、国土交通省との協議が安全性の低下を原因として不調に終わり、追加で河川と別に地下配水管を建設することを発表した(ダム建設とのコスト比較はなされなかった)。なお、浅川の治水計画は、知事交代後「河道内遊水池」案に変更になった。 また、長野県議会議員の多くは、長野新幹線の操車場建設時、治水のためダム設置を約束しており、約束の履行を求めているが、他県と同じく大手建設業者(ゼネコン)との癒着が一部から指摘されている。中止したダム事業#脱ダム宣言によるものも参照。 こうしたことから、長野県議会との確執が顕著となり、2002年7月5日、県議会6月定例会で知事不信任決議が可決された。その不信任決議を受け、7月15日に、田中は知事失職を選択し、再び知事選が行われることとなった。そして、9月1日の選挙で、圧倒的な得票差を付けて、経営コンサルタントの市川周らを破り再任された。
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