序説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:22 UTC 版)
前述したように、クインティリアヌスは皇帝ドミティアヌスの治世の最後の年にこの本を執筆した。ローマ皇帝の中でも、たとえばネロ、カリグラ、ドミティアヌスの治世下は、時が経つにつれてますます非道なものになっていった。「秘密警察がさかんにローマ市民を餌食にしていき、元老院議員たちでさえさまざまなやり方でさかんにお互いを密告しあった…… ドミティアヌスの治世下、皇帝に対する不敬のほんのわずかの疑惑でも極刑に値した」。社会的・政治的腐敗がはびこっていた。最大の皮肉は、堕落したドミティアヌスが「公衆道徳の責任のある終身監察官に」自分自身を任命したことだった。 こうした背景で、「国の敵を公けに告発したことで弁論家としての名声」をも博したキケロの流れを受け継ぐ弁論家を見付けるのは困難であった。アウグストゥス以降の皇帝の統治下、そのような立場を取ることは率直にいって危険すぎた。したがってキケロの時代以降、弁論家の役割は変わってしまっていた。当時の弁論家は何よりも裁判での弁論を生業としていた。そんな時代に、クインティリアヌスは、過去の理想主義を投げ込もうと試みたのである。「政治的雄弁は死んだ。そしてローマの誰もがそれが死んだことを知っていた。しかしクインティリアヌスは自分の教育的理想として、過去の世代の雄弁をあえて選んだ」。
※この「序説」の解説は、「クインティリアヌス」の解説の一部です。
「序説」を含む「クインティリアヌス」の記事については、「クインティリアヌス」の概要を参照ください。
序説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:04 UTC 版)
1910年代、ロシア帝国は世界に有数の航空隊をもつ国として知られていた。1917年にロシア革命が発生すると、この帝国航空艦隊は指揮系統に甚大な損害を受けた。その中から、一部は白軍やイギリス・フランスなどの反革命干渉軍に、一部はウクライナなどの各独立勢力に、そして一部はボリシェヴィキ率いる赤軍に組した。赤軍派の部隊は、陸の「赤軍」、海の「赤色海軍」に倣って「赤色空軍」と呼ばれるようになった。 ロシア内戦は赤軍の勝利の内に終わったが、国内産業は甚大な被害を受けた。新たに結成されたソ連政府は航空兵力の増強をひとつの国家軍事戦略の根幹に据えた。国内での航空産業の復興を図るため、ソ連は英・独・米などの海外の機体を参考に自力での航空機製造に全力を傾けた。 また、赤色空軍はロシア革命期より共産党のプロパガンダにしばしば登場した。これは、飛行機が時代の先駆けを告げるシンボルと看做されたためであった。赤の広場上空を飛行したANT-20「マクシム・ゴーリキイ」号、国民的英雄となったテスト・パイロットであるヴァリェーリイ・チュカーラフはその代表格であった。また、大陸間横断や国内横断などの記録作りに国を挙げて取り組んだのも、1930年代の空軍の拡張時代であった。 その結果、1935年から1939年にかけて赤色空軍の拡張は列強国随一となった。その拡張ぶりは、1930年に1000機足らずであった航空戦力が、1938年には5000機を超え、1941年には約15000機に達するほどであった。この時期の開発主力は戦闘機、特に単座戦闘機であった。これは、スペイン内戦やノモンハン事変における戦訓によって、英・独・日にくらべ戦闘機の劣勢を痛感したに他ならなかった。I-15やI-16ではそれらの国に太刀打ちすることができず、ミグ設計局やヤコヴレフ設計局による設計の新型機に重点が置かれた。一方、爆撃機は、TB-3巨人機を初めとした旧式機の装備のままの状態で、後継機TB-7(Pe-8)の生産をノヴォシビルスクで行っていたものの、新型機への代替は円滑には行かなかった。他方補助ロケットの研究や大口径機関砲の研究では、他国より進んでいたとみられる。ともあれ、軍用機の生産台数は1940年当時で月産750機に達し、これは世界最大数値の実績であった。 この間(1939年11月~1940年2月)に行われたフィンランド侵攻において、赤色空軍は2500機の軍用機を参戦させた。赤色空軍は、ヘルシンキ他の都市を爆撃し8000tに及ぶ爆弾を投下した。だが対空砲火他による損害も多く、参戦した25パーセントが失われた。 赤軍において、地上兵力に対する近接航空支援の中核と認識されていたのは襲撃機航空隊であった。赤軍野戦操典(1940年度版)によれば、襲撃機航空隊は次のような任務を帯びるものとされている。すなわち地上軍に対する空からの支援、戦車及び自動車の行軍縦列への攻撃、戦場や集結地点あるいは街道上での敵兵力の殲滅、そして飛行場、司令部・指揮所、輸送車両、防御施設、鉄道駅及びそこに停車中の列車への攻撃である。襲撃機連隊の装備機は、旧式化した複葉戦闘機I-15bisやI-153を地上攻撃用に改造したものであり、初めて採用した専用の襲撃機Il-2AM38の量産は1941年3月から開始された。しかしIl-2攻撃機のテスト開始の命令が出されたのは1941年5月30日であり、独ソ開戦までに十分な配備と訓練がなされることはなかった。
※この「序説」の解説は、「赤色空軍」の解説の一部です。
「序説」を含む「赤色空軍」の記事については、「赤色空軍」の概要を参照ください。
序説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:18 UTC 版)
11世紀から19世紀にかけ、西サハラはブラックアフリカと北アフリカの間にあった。11世紀にサンハジャ部族連合(英語版)はラムツナ部族(英語版)と同盟し、ムワッヒド朝を立てた。ムワッヒド朝の征服範囲は大モロッコと呼ばれる、マグリブの一部を含む現在のモロッコの大部分とトレムセン(現在のアルジェリア西部)、北はイベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)、南はマリ帝国、ガーナ王国(現在のモーリタニアやセネガル)まで達していた。 16世紀にモロッコに成立したサアド朝は1591年にニジェール川を基盤としてたソンガイ帝国を征服した後、西サハラはマリのトンブクトゥとモロッコのマラケシュの間のキャラバン隊の戦略的交通路となり、サハラ交易が活発となった。17世紀と18世紀には奴隷貿易が一般的となった。 西サハラ地域は19世紀末の列強によるアフリカ分割についてのベルリン会議にてスペインに与えられたことにより、1884年にスペインの植民地となった。その結果、西サハラはスペイン領サハラと呼ばれることとなった。 1975年11月6日、モロッコは緑の行進を組織した。これは、非武装民間人35万人がモロッコ全土から後に南部諸州と呼ばれるようになった地域へ移動するという大規模デモである。その数日前(10月31日)に、モロッコ王立軍(英語版)は北西より侵略を行っていた。この結果、スペインはモロッコとモーリタニアと共にマドリード協定に調印しこの地域を放棄した。 西サハラにはモロッコとポリサリオ戦線との間の係争地域が1975年より残っている。モロッコは歴史的な繋がりに基づく統治権を要求し、一方ポリサリオ戦線は脱植民地化と国家の独立を求めている。この係争はマンハセット交渉によって解決を保留している。 西サハラには主にアラビア語ハッサニヤ方言を話すサハラウィー人(英語版)に加えて、シルハ語(ベルベル語)を話す北部の少数民族がいる。
※この「序説」の解説は、「西サハラの歴史」の解説の一部です。
「序説」を含む「西サハラの歴史」の記事については、「西サハラの歴史」の概要を参照ください。
序説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 06:05 UTC 版)
ギリシア神話を題材とし、トロイア戦争十年目のある日に生じたアキレウスの怒りから、イーリオスの英雄ヘクトールの葬儀までを描写する。ギリシアの叙事詩として最古のものながら、最高のものとして考えられている。叙事詩環(叙事詩圏)を構成する八つの叙事詩のなかの一つである。 元々は口承によって伝えられてきたものである。『オデュッセイア』第八歌には、パイエーケス人たちがオデュッセウスを歓迎するために開いた宴に、そのような楽人デーモドコスが登場する。オデュッセウスはデーモドコスの歌うトロイア戦争の物語に涙を禁じえず、また、自身でトロイの木馬のくだりをリクエストし、再び涙を流した[要出典]。 『イーリアス』の作者とされるホメーロス自身も、そのような楽人(あるいは吟遊詩人)だった。ホメーロスによって『イーリアス』が作られたというのは、紀元前8世紀半ば頃のことと考えられている。『イーリアス』はその後、紀元前6世紀後半のアテナイにおいて文字化され、紀元前2世紀にアレキサンドリアにおいて、ほぼ今日の形にまとめられたとされる。
※この「序説」の解説は、「イーリアス」の解説の一部です。
「序説」を含む「イーリアス」の記事については、「イーリアス」の概要を参照ください。
序説と同じ種類の言葉
- >> 「序説」を含む用語の索引
- 序説のページへのリンク