日原昌造
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日原 昌造(ひのはら しょうぞう、嘉永6年(1853年) - 明治37年(1904年)1月26日)は、幕末・明治初期の長府藩士、時事新報記者、実業家。愛知師範学校、静岡第一師範学校の校長を務めた。筆名は豊浦生[1]。
注釈
- ^ これは『時事新報』に「脱亜論」が発表される4ヶ月前の社説である。
- ^ 「余ハ興亜会ニ反シテ脱亜会ノ設立ヲ希望スル者ナリ」。つまり「脱亜会」という形で、「脱亜」という言葉が出てくるんです。「興亜」に対しての「脱亜」。しかもそれは全体の口調からして非常にアイロニカルなんです。「興亜会」なんて作るより、「脱亜会」を作ったらどうだという。 — 丸山眞男、福沢諭吉の「脱亜論」とその周辺 1990年9月[6]
- ^ 「脱亜会」というのは、名前からして、できるはずがないんで、この「脱亜会」という思いつきが奇抜で、「脱亜」という表現がシニカルだから、福沢はこういう表現を好んで使いましたから――福沢のスタイルとして、あ、これは面白いということになって――、翌年の社説の一編に「脱亜論」という題を付したんじゃないか、これは私の想像ですけれども。 — 丸山眞男、福沢諭吉の「脱亜論」とその周辺 1990年9月[6]
- ^ 日原は行く先々で当時の英国社会に遍在する帝国意識と遭遇し、「倫敦通信」の中で怒りや嘆きを吐露している。大英帝国の首都ロンドンという現場で働く、長期生活者たる日原昌造。彼の眼を通した新鮮にして詳細な国際情報が、福沢のもとへ定期的に届けられていた(福沢における無形から有形への「力点の移動」を考察する場合においても、日原を含めた在外門下生による現場からの声と「万国博覧会時代の『民情一新』」という視点は有効であると考える)。「日本ハ東洋国タルベカラズ」は、こうした日原による「倫敦通信」の集大成といってもよい。「興亜」「脱亜」という言葉の問題にとどまらず、当時の在外日本人が五感をフル活用して全身で感じ取った帝国主義を理解する必要がある。 — 岡部泰子、補注[7]
出典
- ^ a b c d e f g h i j 慶應義塾 (2010, p. 558)
- ^ a b c d 岡部泰子による補注を参照。丸山 (2009, pp. 33–35)
- ^ 森永長壹郎「新島襄と森永太一郎 : 誕生より帰国まで」『新島研究』第102巻、同志社大学同志社社史資料センター、2011年2月、31-59頁、CRID 1390290699890567680、doi:10.14988/pa.2017.0000013032、ISSN 0287-5020、NAID 110009558830。
- ^ 丸山 (2009, pp. 6–10, 日原昌造の「日本ハ東洋国タルベカラズ」)
- ^ 岡部泰子作成の補注を参照。丸山 (2009, pp. 34f)
- ^ a b 丸山 (2009, p. 7)
- ^ 丸山 (2009, pp. 34f)
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