日本ハ東洋國タルベカラズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 15:45 UTC 版)
「日原昌造」の記事における「日本ハ東洋國タルベカラズ」の解説
丸山眞男の調査によれば、脱亜という語句が使用された最も古い史料は1884年(明治17年)11月11日に『時事新報』に掲載された社説「日本ハ東洋國タルベカラズ」である。執筆したのは豊浦生という筆名の日原昌造である。この社説の中で「興亜会」に対して「脱亜会」という語句が用されている。この社説において、「興亜会」という語句が5回、「脱亜会」という語句が1回使用されている。この社説に関しては丸山は「脱亜会」という語句がアイロニカルな表現であると指摘している。そしてこの「脱亜会」という表現がアイロニカルでシニカルだから福澤が「脱亜論」という社説の題名に使用したのではないかと推測している。補注を作成した岡部泰子はロンドンに在住していた日原昌造が「倫敦通信」という形で大英帝国の実情をリアルタイムで福澤に伝えていたことが福澤の国際認識に影響を与えていたと指摘している。 豊浦生 (1884年11月11日). “日本ハ東洋國タルベカラズ” (PDF). 時事新報 (時事新報社). http://blechmusik.xii.jp/resources/hirayama/editorials/1884/18841111.pdf 2016年4月17日閲覧。 豊浦生 (1884年11月13日). “日本ハ東洋國タルベカラズ(一昨日ノ續)” (PDF). 時事新報 (時事新報社). http://blechmusik.xii.jp/resources/hirayama/editorials/1884/18841113.pdf 2016年4月17日閲覧。 豊浦生 (1884年11月14日). “日本ハ東洋國タルベカラズ(昨日ノ續)” (PDF). 時事新報 (時事新報社). http://blechmusik.xii.jp/resources/hirayama/editorials/1884/18841114.pdf 2016年4月17日閲覧。
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