日本パビリオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 02:36 UTC 版)
「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の記事における「日本パビリオン」の解説
日本政府(農商務省)は第2回の1897年にイタリア政府の要請を受けて工芸作品などを出展しているが、その次の参加は第14回(1924年)まで飛んでいるように、政府や国民は一貫してビエンナーレには関心を示さず、展示スペースは毎回他国のパビリオンを間借りしていた。1930年代以降、日本政府はたびたびイタリア政府からパビリオン建設を打診されており、民間では募金を集めて日本館を建設する運動もあった。しかし建設に踏み切る間もなく世界は第二次大戦に突入した。 1952年、日本はビエンナーレにはじめて公式参加した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1950年代前半、イタリア政府から日本外務省へ、ジャルディーニに空いていた最後のパビリオン用地に日本が1956年までにパビリオンを建設しない場合はパビリオンを欲している他国へ用地を割り当てるという通告がなされた。日本は予算不足を理由に建設を見送るところであったが、1955年、ブリヂストンの会長だった石橋正二郎が外務省の要請に応じて資金を政府に寄付し、外務省予算と合わせて建設費が出せることになった[要出典]。吉阪隆正の設計による日本館が完成したのは1956年であった。
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