興亜会
興亜会
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1878年(明治11年)秋に副島種臣が帰国すると、後を追うように1879年(明治12年)春来日し、長崎で地元の文人に引き止められ、10ヶ月滞在した後、1880年(明治13年)春東京に出て、曽根俊虎宅に寄寓した。 1880年(明治13年)2月、曽根俊虎が興亜会を設立すると、副島種臣やその支那語学校講師興亜黌本科の午前の授業において、古文音読、字音を教えた。当初は芝区西久保巴町の校舎に住み込み、11月7日、麹町区五番町18番地に移った。生徒には宮島大八、小田切万寿之助、大倉喜八郎、恒屋盛服等がいた。 1880年(明治13年)2月28日東京地学協会に入会、1895年(明治28年)10月28日免費会員となった。興亜会には3月に同盟員として入会し、12月創立員に昇進、例会、議員会、懇親会等に積極的に参加し、唯一の在京民間中国人会員としての精力的な活躍が認められ、1883年(明治16年)から3回議員に当選した。壟思録の後任として、1880年(明治13年)9月1日から11月まで慶應義塾大学支那語科講師を兼職した。教科書には慶應義塾出版会などから販売された「興亜会支那語学校」編集の『語言自適集』を使った。その後、浙江省から郭宗儀が講師として来在したが、壟と張が北京官話(北京語を含む華北方言)を教えていたのに対し、郭は南音(南方系の発音)のため生徒が困惑するなどの事態が生じ、張は慶應義塾支那語科を退任した。 1882年(明治15年)5月4日支那語学校が廃校となり、5月16日文部省東京外国語学校漢語学講師に雇い替えとなった。同校は東京商業学校第三部として統合、後に語学部と改称され、1886年(明治19年)廃止されたが、この時解雇されたか定かでない。 1889年(明治22年)9月、帝国大学文科大学博言学科及び漢学科で教え、同時に東京高等商業学校嘱託支那語学講師を務めた。帝大では『亜細亜言語集』『西廂記』『桃花扇』等を用いたが、生徒の学習意欲は低く、滋昉もこれを放任していたという。この頃浮槎(査)散人と号しているが、『論語』公冶長篇「道行はれず、桴に乗りて海に浮かばん。」から採ったもので、異国の地で自らの不遇を嘆く心境を表している。 1891年(明治24年)3月15日から1894年(明治27年)8月19日まで、副島種臣、榎本武揚等の推薦により、清国公使館内の日本語学校東文学堂で漢文を教えた。 1894年(明治27年)日清戦争が勃発し、在日清国人が次々と帰国する一方、日本人の間では中国語学習熱が高まり、日本に留まり続けた滋昉は引っ張りだことなったが、市井の人から乱暴、投石等を受けるようになり、一旦帰国した。 1895年(明治28年)には帰国し、4月から半年間存在した東亜学院でも教えている。
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興亜会
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1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午事変などで日清関係が悪化していくなかで両国の平和的な提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。駐日公使の何如璋ら清政府関係者の支持も受け、日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。
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