岡鹿門
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岡 鹿門(おか ろくもん、天保4年11月2日(1833年12月12日)- 大正3年(1914年)2月28日)は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者。名は千仭(せんじん)、字は振衣、初名は敬助、鹿門は号。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。
経歴
仙台藩の番士として将来を嘱望され、江戸に出て昌平黌に学び、のち舎長となる。同窓の重野成齋、松本奎堂、松林飯山、南摩羽峰と深く交わり、大坂で私塾「雙松岡塾」を開いて尊王攘夷論を唱えた。清川八郎、本間精一郎などを教育した。慶応2年(1866年)に藩校・養賢堂指南役。
戊辰戦争に際して、奥羽越列藩同盟に反対した[1]ことから仙台藩主及び藩士の怒りを買い、投獄された。
明治維新後は太政官修史局、東京府等に務めたがほどなく辞任し、芝愛宕下の旧仙台藩邸を利用して私塾「綏猷堂」を開き、門弟の教育活動に当たり、福本日南、尾崎紅葉、片山潜、国分青崖など多くの偉人が門を叩き、福沢諭吉の薦めで啓蒙活動を開始し始めた。
晩年には、大陸経論の志を抱き始め、李鴻章を尋ねて支那改革論を説き、大陸浪人として活躍。初期の興亜会にも関与した。
栄典
著書
- 『尊攘紀事』
- 『同補遺』
- 『米利堅志』
- 『佛蘭西志』
- 『琉球始末』
- 『渉史偶筆』
- 『蛍雪事業』
- 『北遊詩草』
- 『在臆話記』[3]
脚注
参考文献
- 黒龍会編『東亜先覚志士記伝』(黒龍会出版部、1933年-1936年)
岡鹿門
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儒学者。直接の弟子ではないが、磐渓に影響を受けたと彼自身が語っている。磐渓が養賢堂の学頭時代、「指南役見習」を命じられたが、上司の磐渓とは方針が対立した。尊攘倒幕論者でもあったため後に磐渓の批判に回り、敗戦責任を追及したり、磐渓をかばう息子達に非難を浴びせることもあった。
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