十三山書楼での志士との交流
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「加藤桜老」の記事における「十三山書楼での志士との交流」の解説
弘化2年(1845年)、養父信義の死去で家督を相続するが、なお藩政に不満があり病と称して出仕を断り続けた。嘉永2年(1849年)には本家長岡藩藩主で幕府の老中だった牧野忠雅に笠間藩情を訴える行動を起こす。その後も再三に渡る笠間藩の要請に従わなかったため嘉永4年(1851年)、隠居を命じられ嫡子麟太郎に家督を譲った。 安政3年(1856年)、自宅近くに2階建ての隠居場所十三山書楼を構える。楼上からは十三の山並みが一望できたため名づけられたが、1階は教育の場「詠帰塾」として開放し、2階は応接間兼書斎となっていた。 「詠帰塾」には笠間藩士ばかりではなく、多くの志士たちが桜老に教えを請いに、あるいは談義をするため十三山書楼を訪れた。近隣では水戸藩の藤田小四郎、遠くは会津藩の秋月悌次郎、仙台藩の岡鹿門、長州の高杉晋作、佐久間佐兵衛、薩摩の重野安繹など多彩な人材が訪れ、桜老は十三山書楼で情報収集と国論の形成を行った。 高杉晋作は二度、桜老の下を訪れている。一度目は万延元年(1860年)、二度目は文久2年(1862年)でこの時、攘夷の実行を桜老に打ち明けるため、江戸の長州藩邸を脱走してきた高杉を心配して桂小五郎(木戸孝允)に迎えに来るよう書簡を送っている。
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