十三年式村田銃
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十ヶ月に及ぶ欧州留学から帰国した村田経芳は、グラース(グラー)M1874やボーモン(バーモン)M1871を参考に、1880年(明治13年)に日本独自の国産小銃を完成させ、日本陸軍によって制式採用され、制式名称を「紀元二五四〇年式村田銃」(後の1885年(明治18年)に、改良型の「十八年式村田銃」に合わせて、「十三年式村田銃」(正式には「明治十三年 大日本帝國村田銃」)に改称)とされた。 十三年式村田銃はボルトアクション式単発銃であり、使用弾薬は11mm村田(11x60R Japanese Murata)有縁(リムド)弾薬(装薬は黒色火薬)を使用したが、これはシャスポー/グラース銃に使用された11mmx59.5弾薬とほぼ同寸のものだった。 これは、村田銃の生産と並行して手持ちのシャスポー銃を村田式(金属薬莢用)へ改造する作業が同時に行われていたため、弾薬を共通化するための措置であり、これら改造されたシャスポー銃は“シヤスポー(シアスポー)改造村田銃”と呼ばれ、1885年(明治18年)の時点で村田銃と呼ばれていた物の相当数がこの改造品であったことも記録されている。なお、当時の薬莢製造工程に起因するためか、今日のリムド弾薬と異なり、リム底面は雷管周辺部のみが僅かに突き出した形状となっている。リム底面には寛永通宝等の江戸時代の通貨と同様の文字配列で四文字の刻印が記された。一般的には明治を表す「明」と、二桁の年号を一文字分に縮小した「廿三」(23)等の漢数字が製造年号として必ず刻印され、残りの二文字は「実包」あるいは村田の読みを仮借した造語である「邑手(むらた)」のどちらかが用いられた。 最重要部品である銃身はベルギーからの輸入に頼っていたが、その他の部品は全て日本国内で加工されていた。 村田十三年式がシャスポー/グラース銃と異なる点は、日本の気候に合わせて表面仕上げが白磨きではなくブルー仕上げ(酸化処理)とされ、ボルト後端のノブが単純な円形にローレット加工のみとされ製造が容易になっている点と、ボルト内部のスプリングに松葉バネを使用していた点である。 当初は参考としたシャスポーやグラースと同様にコイルスプリングを用いた機構を考えて、スプリングの製造装置を輸入して試作してみたが、良質な鋼材そのものを輸入に頼っていた当時の日本では満足なものを作ることができなかった。しかし松葉バネなら江戸時代から続く国産技術が存在したため、妥協的に松葉バネを使用して製造された。耐久性やメンテナンスの問題があったが、当時の日本の技術水準では一番確実な選択をしたと評価できる。バネはボルト・ハンドル部の内側に仕込まれ、そのためボルト・ハンドル部が太く平たくなっており、これが村田銃の外観の特徴になっている。尚、参考にされたのは同様のV字バネ機構を持つ、オランダのボーモンM1871歩兵銃である。 薬室の密閉は金属薬莢の膨張作用と薬室内に挿入されたボルトの先端部で行い、大きく平たいボルト本体が機関部先端の溝に填り込むことで強固な固定が行われるため、ボルト先端には閉鎖機構や噛み合いラグの類は特に装備されていない。ボルトは90度垂直に起こすことでコッキングが行われ(コック・オン・オープニング方式)、十三年式や十三年式を参考にした村田式散弾銃の場合には、ボルトが後退した際にはボルト先端側面にマイナスネジで固定されたボルトストッパーが機関部後端に当たることでそれ以上の後退が阻止される。このボルトストッパーを取り外すことで簡単にボルトを機関部から抜くことができるが、古い銃の場合にはボルトストッパーが変形・脱落して排莢の際にボルトが後方にすっぽ抜けることもあった。十八年式では機関部左側面にマイナスネジ状のストッパーをねじ込むことでボルトの抜け止めが行われる形に変更された。 撃針はボルト後端の円形の出っ張り(コッキング・ピース)と一体化した長い複雑な形状のものが用いられ、コッキングした際にはこの円形の出っ張りが後方に突き出すことで、コッキングされているか否かが容易に判別できた。後年、村田式散弾銃においてはこの円形の出っ張りを指してデベソと呼ぶ場合があったという。コッキングの判別自体が容易に行える上、コッキングされた撃針をゆっくり戻すには一旦ボルトを後方に引き、引き金を引いたままボルトを再度前進させることで簡単に行えたことから、後述の村田式騎兵銃を除き、十三年式、十八年式共に安全装置の類は一切装備されなかった。 エキストラクターはボルトの側面に設けられた溝に簡易に嵌め込まれただけのものであり、ボルトを抜く際にはエキストラクターの脱落に注意する必要がある。このエキストラクターは薬莢を薬室から引き抜くだけの役割しか果たさず、後年の銃に見られるような薬室外に薬莢を蹴り出す機能は存在しないため、引き抜かれた空薬莢を排除するには銃を斜めに倒すか、ボルトを操作した手で直接薬莢を排除する必要がある。しかし、熟練した射手であれば引き金を操作する右手の中指と薬指の間に数発の予備弾を挟んでおき、小指と掌でボルトを操作しながら素早く装填することでかなりの速度で連射することもできたという。 銃身と機関部は銃身側に外ネジ、機関部側に内ネジが切られ、ねじ込み構造によって固定される。銃身後端には照星を正確に銃身直上に合わせるためのごく薄い微調整用金属製ガスケットが挿入され、銃身と機関部のシールが行われた。薬室後端部上面には異常腔圧により薬莢が破断した場合に撃針側から燃焼ガスの吹き抜けが起きないように非常用ガス抜き穴が設けられた。このガス抜き穴は日本軍の後継ボルトアクションライフルの多くに引き続き採用され続けた。 歩兵銃に菊の御紋が刻印されるようになったのも本銃が始まりである。西南戦争における退却の際、小銃を放棄して逃げる兵が続出したため、銃を捨てることがないようにとの村田の配慮で刻まれたと言われている。この菊の御紋は海外に現存する村田銃では×の字の刻印を後から打刻するなどの方法で消されたものがあり、後の有坂銃における終戦後の海外流出品と類似した処置が、村田銃の払い下げの段階から既に行われていた事を示している。 十三年式は約6万挺が製造された。日清戦争では十八年式とともに主力小銃であった。
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