日本におけるシャスポー銃
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「シャスポー銃」の記事における「日本におけるシャスポー銃」の解説
慶応2年(1866年)12月、ナポレオン3世は2個連隊分(1800丁とも2000丁とも)のシャスポー銃を江戸幕府に無償提供している。また、幕府もこの銃を10000丁ほど注文している。当時最新鋭のこの武器を大名・旗本に売り込むためであった。 同時期にイギリスで採用されたスナイドル銃が戊辰戦争期にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、ライバルになった。戊辰戦争期にはスナイドル銃の数は少なかったが、スナイドル銃は簡単な加工で前装銃を後装式に改造できたため、既に多数輸入されていたエンフィールド銃を元に日本国内でも改造する事が可能(事実、当時の鉄砲鍛冶は旧々式化していた数百年前の種子島式火縄銃までも後装銃に改造している)であり、完成度の高いボクサーパトロンは防水・防湿性に優れた密閉構造だったため、多湿・多雨な日本や当時のイギリス植民地であった南・東南アジアでも問題なく着火する信頼性を有していた。 これに対してシャスポー銃は、フランス語通詞が少なかったために教範(取扱・運用説明書)の日本語訳すら完了していなかった。さらに遠く離れたフランス本国で製造されていた専用弾薬の供給も困難であり、薬莢の構造と日本の気候の相性が悪く不発が多かったこともあって全く有効に運用されず、一説には江戸城開城の際に手付かずの状態で蔵に残されていたとも言われている。 大鳥圭介率いる幕府陸軍の精鋭部隊、伝習隊がシャスポー銃を使用していたという記述が散見されるが、これを真っ向から否定する研究者もいる。もっとも、雨が多く湿度の高い日本で紙製薬莢の扱いに苦労したり、不足した専用弾薬を大鳥が日本で作らせたがうまくいかなかった等の記録が残っていることから、伝習隊がシャスポー銃・ドライゼ銃といった紙製薬莢を使う後装式銃を一時期であれ使用していたことは確かなようである。 また、幕府とフランスの関係以外に、先述のファーブル・ブランド商社を経由して、独自にシャスポー銃を1,600丁の購入を計画していた藩も存在していた。 明治新政府が日本陸軍を創建した後、紙製薬莢の問題とゴム部品の調達難から信頼性に欠けたシャスポー銃は主力小銃としては使用されなかったが、明治5年に紙製薬莢の製造が行われていた記録があり、1874年(明治7年)頃からシャスポー銃のボルトに嵌めるゴム部品の品質や購入についての記録が散見されるようになる。この時期は原産国のフランスでシャスポー銃から金属薬莢式のグラース銃への改造が行われており、一旦は将来の統一装備として位置付けられ、日本陸軍がゴムの焼損に手を焼きながらもシャスポー銃を使用していた状況が記録されている。 また、明治10年(1877年)西南戦争で激戦が繰り広げられていた時期には、村田経芳少佐がドイツの企業に依頼してシャスポー銃を金属薬莢式に改造する計画を進めていた事も記録されている。 国産小銃となった村田銃を試作する過程では、シャスポー銃が金属薬莢用に改造されたグラース銃が参考とされて13年式村田銃が完成しており、村田銃はシャスポー銃から多くの構造を継承しており、村田銃採用前後の時期には、村田銃の製造と並行してシャスポー銃も金属薬莢使用へ改造され、これは“シヤスポー改造村田銃”と呼ばれていた事も記録されており、十三年式村田銃はシャスポー/グラース銃の国産化計画の延長で製造された事が理解できる。
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