日本におけるシャツ文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/15 23:52 UTC 版)
江戸時代最末期~明治時代初頭の頃に日本へもたらされた。当時の日本人の一般的な服装は着物であったが、文明開化の名の下に(特に東京近辺において)洋装の導入が進み、シャツの着用も行われるようになった。ただし、民衆の一般的な服装はやはり和装であり、シャツ等の洋装を行う者は「キザ」「西洋かぶれ」というネガティブなイメージで見られていたようである。(夏目漱石の『坊っちゃん』にも嫌味な登場人物として「赤シャツ」が描かれている。) その後、都市部では洋装が普及し、シャツの着用も一般的となっていったが、農村部においては太平洋戦争期頃まで和装が普通であり、あまり普及していなかった。戦後は日本文化のアメリカ化が進み、農村部へもシャツを始めとする洋装が広がっていった。 日本における礼儀正しいシャツ(ワイシャツ(ブリーフが1935年に発明されるまでヨーロッパの男性では唯一の下着)からTシャツまで含む)の着用方法は、裾(すそ)をズボンの中に入れることとされている。裾をズボンの外に出すことは、元来下着であったため、カジュアルの場であっても非常にみっともないことと長らく考えられてきた。日本のファッションでシャツを外に出すようになったのは、上着としての機能を持っていたアロハシャツを別にすれば、1960年代のIVYファッションからで、VANの白いコットンパンツの上にマドラスチェックのシャツ裾を出して着るスタイルが、平凡パンチなどで紹介され非常に流行した。70年代に入るとヒッピーファッションの流行でワイシャツよりもさらに下着とされていたTシャツが、ジャケット同様のあつかいを受けるようになり、Tシャツもまた裾を出して着るのが常識となっていった。このシャツの裾を外に出す風潮が一端途切れるのは、1980年代前半頃からのDCブランドの流行でよりフォーマルな服装が流行した時期であり、シャツの裾を外に出すファッションが再流行するのはバブル崩壊を待たねばならなかった。1980年代後期の頃から、カジュアルシーンにおいて、裾を外に出す着用形式が再び広まっていき、1990年代に入ると、カジュアルシャツ(ポロシャツやボタンダウンシャツ等)の裾を外出しすることは一般的となり、特にTシャツやポロシャツの裾をズボンの中に入れる形式は, 制服などで定められた場合を除きほぼ絶滅するまでに至った。しかし、2000年代以降には、股上の浅いパンツが増えたためか、またこれらを中に入れる形式もよく見られるようになった。2010年代以降には、若い女子中心にファッションが多様化したことにより、特に 10 代 20 代の女子の間で T シャツ等の一部又は全部を中に入れる形式が外出しに劣らず頻繁に見られるようになっている. もっとも, 例えば, とくに中高の女子でポロシャツで通学を行う人が多いがその場合制服や校則で定められるケースを除くと中に入れる形式はまず見られない他, 中高で(男女問わず)先生の指示のない場合に体操着のシャツを中に入れることは少ないなど, 定められた状況でなくとも時と場合に応じ「中入れ」「外出し」はうまく使い分けられていると考えられる。 シャツの種類の中でも開襟シャツは大正末期に日本において発明されたシャツとして特筆される。医学博士で金沢大学学長の戸田正三がオーストリアのチロリアンシャツを基に大正末期に戸田式開襟シャツとして発明したシャツである。それ以前のシャツとの相違点は、襟が上着のように開いていることと、裾を外に出して着る前提で裾がスクエアテールにデザインされていることである。戸田の普及活動や講演活動により1933年(昭和8年)ころにはノーネクタイでも正装とみなされる盛夏の服装として定着した[。アロハシャツの開襟襟と、1941年に始まったアロハシャツをハワイの正装として認めようという運動は日本の開襟シャツに由来する。
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