猟銃としての村田銃
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村田銃の猟銃としての歩みは、1881年(明治14年)に松屋兼次郎が村田経芳の指導の元で火縄銃の銃身に村田式機関部を取り付けた元込め散弾銃を開発したことに始まる。 旧式化した十三年式・十八年式村田銃の一部は、軍の収益事業の一環として着剣装置や銃身内のライフリングを銃身長の半分まで削り取られ、散弾銃に改造されてから民間に払い下げられ、軍用銃としてよりも長い期間を猟銃として活躍した。 村田銃の散弾銃への改造は東京砲兵工廠小銃器製造所が担当し、この時に11mm村田弾をベースにした30番真鍮薬莢が工廠の薬莢製造施設を流用する形で製造が始められた。 「村田銃」の名前は、始めは払い下げられた軍用ライフル銃や、それを改造して散弾銃とした物を指していたが、後に村田経芳が村田銃のパテントを民間に広く販売したことにより、多くの民間銃器メーカーや銃職人により軍用村田銃の機構を模した散弾銃が作られることとなった。最初はそれらの散弾銃は村田式散弾銃と呼ばれていたが、次第に本来の村田銃ではない同形式の猟銃もすべて「村田銃」と呼ばれるようになったのである。なお、村田銃の払い下げが始まった明治10年代当時は、2018年現在の日本の銃器行政上の分類である「ライフル」と「散弾銃」と呼ばれる区分はまだ存在せず、洋式若しくは和式の「軍用銃」及び「猟銃」という区分のみが存在していた。日本の銃器行政史上「ライフル」と呼ばれる区分が初めて登場するのは昭和46年の事である為、当時の文書資料上は村田式散弾銃ではなく、村田式猟銃の名称の方がより一般的に使われていた事には留意されたい。 現存する銃器メーカーではミロクの猟銃の販売元であった川口屋林銃砲店(KFC)などが各種の村田式猟銃の製造販売を行っていた。明治期の著名な製造元には、横浜で金丸謙次郎が興した金丸銃砲店、金丸の元で修行を積み明治14年に独立した十文字信介、東京の川口亀吉が興した川口屋(KFCの前身)、後年に本邦屈指の水平二連の名工と謳われた名和仁三郞を輩出した岡本光長の岡本銃砲店、後のモリタ宮田工業の創業者でもある宮田栄助などが存在しており、明治20年頃には民間の村田銃製造業者は国内に14軒ほどが存在していた。大正から昭和初期に掛けて水平二連のハンドメイドで名を馳せた日本人銃工達は、これらの民間業者や東京砲兵工廠での軍用銃作りで技術を磨いたという。 村田式散弾銃で用いられる真鍮薬莢は、まず最初に前述の通り帝国陸軍の造兵廠にて11mm村田薬莢改造の30番薬莢が作られ始め、その後1919年(大正8年)に児島富雄の建議により、陸軍造兵廠より真鍮及び紙製散弾薬莢の製造機械一切の払い下げを受ける形で帝国薬莢製造株式会社(TYK)が設立され、1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで供給が行われた。黒色火薬も村田単発銃で用いられていた板橋火薬工廠のものが民間に払い下げられる形で販売され、1924年(大正13年)には日本化薬も民間で初めて猟用黒色火薬に参入、板橋火薬廠や岩鼻火薬廠製の黒色火薬と並び、戦前の狩猟家の間で広く普及した。 こうした戦前の日本政府や帝国陸軍の振興策も後押しとなり、当時は富裕層しか買うことのできなかった英国製水平二連銃やブローニング・オート5と比較して村田銃の価格は格段に安く設定され、単発式ながらもそれまで民間で主流であった火縄銃や、戊辰戦争期に旧幕府軍や日本の諸藩が導入して明治政府により鹵獲・没収され、後年村田銃作りにも携わった前述の鉄砲商を通じて民間に放出されたゲベール銃やエンフィールド銃などのマスケット銃よりも圧倒的に次弾発射までの時間が短縮されることから、村田式散弾銃は庶民の猟銃として戦後に至るまで広く親しまれた。昭和30年代にJISは散弾銃に関連した諸規格を制定したが、この時に試験銃として採用されたのも村田式散弾銃であった。 形式には大きく分けて5種類あり、 軍用村田銃を改造し28/30/36番径とした物 村田経芳が設立した村田製作所(株式会社 村田製作所とは無関係)により、民間向けに軍用村田銃の構造を踏襲する形で最初から8番-40番径散弾銃として制作された物 民間銃器職人・工場にてライセンス製造された物 火縄銃の銃身末端に村田式のボルトを後付けする事で後装式に改造された物 十三年式村田銃以前に陸軍に導入された洋式銃が村田式のボルトを取り付けて改造され、後に払い下げられた物 が存在した。しかし、これらは「古式銃」としては取り扱われず、現行の散弾銃として所持許可登録を行う必要がある。 この時期のライセンス生産品で特筆に値するものは金丸銃砲店が製造した村田式散弾銃で、他の製造業者が十三年式・十八年式に準じて撃鉄ばねに松葉バネを使用する中、金丸銃砲店は二十二年式村田連発銃を参考としコイルスプリングを用いた槓桿を採用していた。更に金丸は、明治34年頃にはスプリング式村田銃に更なる改良を加え、同時期のレミントン M8を参考にしたとみられる、後年の二式テラ銃のように銃身をテイクダウン(英語版)可能とした新式取放自在村田式銃を発売するに至った。 戦後、新式の猟銃が普及したことにより村田銃が用いられることはほとんどなくなったが、老猟師やマタギを象徴するアイテムとして今日でもフィクション中に登場することがある。 なお、村田式散弾銃は口径が8番、10番、12番、16番、20番、24番、28番、30番、36番、40番、410番、7.6mm(76番)まで幅広い種類が存在するが、十三年式・十八年式の軍用ライフル銃を由来とする村田散弾銃は28/30/36番などの比較的小口径の物が多い。民間製造品の中には12番や20番などの大口径銃も存在するが、村田散弾銃は全て、現行規格の12GA/20GAとは異なるサイズの専用規格の真鍮薬莢に黒色火薬や「送り」と呼ばれるフェルト製ワッズでハンドロードして使用するため、現在の紙またはプラスチックケース装弾を装填して撃つことは原則として不可能である。 その専用真鍮薬莢や弾頭類も、1990年代初頭頃には旭精機工業(AOA)や日邦工業(NPK)などの国産メーカー品の製造が中止されたことや、火縄銃などと異なり「古式銃」にも相当しない「現行狩猟銃」のため、所持許可などの入手要件が厳しいこともあり、近年では村田式散弾銃の実射を行うことは、ある意味火縄銃よりも難しくなりつつあるのが現状である。
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