興亜会設立と琉球処分
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明治7年(1874年)、内務卿・大久保利通の主導で行われた台湾出兵に関しては、宮島主導の下、4月8日左院議官7名の連名で出兵反対の建白書を副議長の伊地知に提出、太政大臣・三条実美に届けられた。しかし聞き入れられなかったため、4月23日に再提出している。明治10年(1877年)12月に初代清国公使・何如璋が来日すると、宮島は頻繁に何を訪れ、筆談で交流。互いに漢詩人であることから意気投合し、親交を深めた。この筆談録は大久保や明治天皇にも提出され、日清両国の情報交流にも役立った。翌明治11年(1878年)、同じ元米沢藩士で渡清経験のある海軍中尉・曽根俊虎が中心となって組織した振亜会(大久保利通・何如璋が計画)への参加を促され、振亜会を母体とする興亜会の設立・運営に関与した。 しかしこの頃、琉球処分が行われ、琉球の帰属問題に関して日清両国は対立。公使館員の黄遵憲・沈文熒らは宮島を訪ね、大いに不平を申し立てた。宮島は沈らとの対話から、ちょうど世界旅行中で日本に滞在中であった元米国大統領・グラントが、琉球問題について日清両国の仲介を試みようとしていることを知り、右大臣・岩倉具視に報告。岩倉は早速、伊藤博文・西郷従道の両参議をグラントが滞在する日光に派遣し、日本側の事情をグラントに説明。宮島自身も駐米公使に赴任予定の吉田清成の仲介で直接グラントに面会、文書を渡すなどし、琉球問題について有利な妥協案を引き出すことに成功した。
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