興亜会設立と琉球処分とは? わかりやすく解説

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興亜会設立と琉球処分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 04:35 UTC 版)

宮島誠一郎」の記事における「興亜会設立と琉球処分」の解説

明治7年1874年)、内務卿大久保利通主導行われた台湾出兵に関しては、宮島主導の下、4月8日左院議官7名の連名出兵反対建白書副議長伊地知提出太政大臣三条実美届けられた。しかし聞き入れられなかったため、4月23日に再提出している。明治10年1877年12月初代清国公使何如璋来日すると、宮島頻繁に何を訪れ筆談交流互いに漢詩人であることから意気投合し親交深めた。この筆談録は大久保明治天皇にも提出され日清両国情報交流にも役立った。翌明治11年1878年)、同じ元米沢藩士で渡清経験のある海軍中尉曽根俊虎中心となって組織した振亜会(大久保利通何如璋計画)への参加促され、振亜会を母体とする興亜会設立運営関与した。 しかしこの頃琉球処分が行われ、琉球帰属問題に関して日清両国対立公使館員の黄遵憲・沈文熒らは宮島訪ね大い不平申し立てた宮島は沈らとの対話から、ちょうど世界旅行中で日本滞在であった米国大統領グラントが、琉球問題について日清両国仲介試みようとしていることを知り右大臣岩倉具視報告岩倉は早速、伊藤博文西郷従道の両参議グラント滞在する日光派遣し日本側の事情グラント説明宮島自身も駐米公使赴任予定吉田清成仲介直接グラント面会文書を渡すなどし、琉球問題について有利な妥協案を引き出すことに成功した

※この「興亜会設立と琉球処分」の解説は、「宮島誠一郎」の解説の一部です。
「興亜会設立と琉球処分」を含む「宮島誠一郎」の記事については、「宮島誠一郎」の概要を参照ください。

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