興亜会(興亜論)との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 20:06 UTC 版)
「脱亜入欧」の記事における「興亜会(興亜論)との関係」の解説
福澤の『脱亜論』(1885年(明治18年))によって反駁された格好の『興亜論』は、興亜会(1880年(明治13年)-)を中心に展開されていた汎アジア主義であるが、その興亜会に勝海舟や福澤諭吉自身が顧問として参加している。ところが、福澤に反駁されたはずの『興亜論』が、後に日清戦争と日露戦争に勝利したのを機に興亜会を吸収した東亜同文会などを中心として「八紘一宇」「五族協和」といったスローガンで喧伝され、日本を盟主とすべきとする侵略正当化論に変質する。そして、昭和前半の多くの日本の軍人・政治家・公務員が日中戦争・太平洋戦争に突き進む心理的要因の一部になる。よって、東亜同文会などにより変質させられた『興亜論』が、昭和前半に日本人の多くが帝国主義・覇権主義・侵略主義・全体主義を信奉し正当化する契機となった思想であり、その対極の福澤諭吉の『脱亜論』とそれを単純化し分りやすく表現した鈴木券太郎らの「脱亜入欧」論とは性格が異なる。
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