舂陵での挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 22:25 UTC 版)
姓名劉縯 時代新代 生没年生年不詳 - 23年(更始1年) 字・別号伯升(字) 本貫・出身地等荊州南陽郡蔡陽県 職官〔舂陵軍頭領〕→柱天大将軍〔自称〕→大司徒〔更始〕 爵位・号等斉武王〔没後〕 陣営・所属等〔独立勢力〕→更始帝 家族・一族父:劉欽 母:樊嫺都姉:劉黄 劉元弟:劉仲 劉秀(光武帝)妹:劉伯姫 子:劉章 劉興叔父:劉良 従弟:劉栩 荊州で反新の活動を行った舂陵軍の頭領である。劉縯は漢復興を目指していたが、王莽の治世の末期である地皇3年(22年)10月に、鄧晨を新野(南陽郡)で、劉秀・李通・李軼を宛(南陽郡)で挙兵させ、劉縯自身は舂陵(南陽郡)で7~8千の軍勢を率いて挙兵し、所属部隊を「柱天都部」と称した。劉秀ら宛の軍勢とは、翌月に合流している。 劉縯は、学友でもある一族の劉嘉を緑林軍系の新市軍(頭領は王匡)、反新の地方軍である平林軍(頭領は陳牧)に派遣して交渉し、三軍の連合軍を結成した。連合軍は宛へ向けて出撃し、緒戦は勝利したが、小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、属正(新制の都尉)梁丘賜に敗北した。この敗北の際に劉縯は、姉劉元と弟の劉仲を始めとする宗族数十人を喪失している。劉縯は、いったん棘陽(南陽郡)に退却した。 しかし、甄阜・梁丘賜の新軍は、追撃のため南進を続行する。甄阜らは輜重を藍郷(南陽郡棘陽県)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水を渡り、沘水に臨んで両川の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷いた。そこで劉縯は、やはり緑林軍系である下江軍の頭領王常と宜秋聚(南陽郡平氏県)で面会し、これを説得して合流を承諾させた。 下江軍を加えて強大化した劉縯らの連合軍は、翌地皇4年(23年)1月、反撃に転じる。別働隊に藍郷の輜重を奪わせた上で、劉縯らは甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を仕掛けた。逃げ場を失っていた甄阜・梁丘賜軍は、次々と黄淳水に落ち込んで2万人余りの死者を出し、甄阜・梁丘賜も混乱の中で戦死した。劉縯はさらに育陽で、新の納言将軍荘尤(厳尤)、秩宗将軍陳茂を破り、宛を包囲している。勢いに乗った劉縯は、柱天大将軍を自称した。長安の王莽は劉縯の勇名を恐れ、その首級に5万戸の食邑と10万斤の黄金を懸けた。
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