アジア近隣諸国や日清戦争観
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「福澤諭吉」の記事における「アジア近隣諸国や日清戦争観」の解説
諭吉は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている。 とりわけ清や中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている。 そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した。 戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている。 しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉や日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人[要曖昧さ回避]数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる。
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