アジア諸国の欧化のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「アジア諸国の欧化のはじまり」の解説
「タンジマート」、「洋務運動」、「チャクリー改革」、および「明治維新」も参照 オスマン帝国では強まる西洋諸国の圧迫のなか、1839年に開明派官僚のムスタファ・レシト・パシャによって「ギュルハネ勅令」が発せられ、これを端緒として「タンジマート」と呼ばれる近代化に向けた諸改革が進められた。この勅令は、必ずしも近代的な立憲思想にもとづくものとはいえないが、ムスリム・非ムスリム(ズィンミー)にかかわらず、すべての帝国臣民には法の下の平等が与えられることのほか、帝国は全臣民の生命・名誉・財産を保障することなどを繰り返し述べているところに1789年のフランス人権宣言の影響が認められ、従来のイスラーム的な神権政治からの脱却が図られた。裁判を公開することやスルタン自身も「法」に違反しないことを宣言するなど、スルタンの権力のうえに「法の力」が存在することを認めている点などでも画期的な意味をもっており、ここに始まったタンジマートは非西洋における最初の近代化の試みである。1876年には、オスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた「オスマン帝国憲法」(通称「ミドハト憲法」)が制定された。 タンジマート諸改革は、1860年代前半に始まった清国の洋務運動、1860年代後半以降のタイ王国のチャクリー改革や日本の明治維新などアジアの「欧化」の先駆けとなった。明治維新後の近代日本は、開国和親の方針のもとで西洋のルールを受け入れたうえで「殖産興業」・「富国強兵」を掲げ、工業化と新たな「国民文化」の創造に継続的な努力を注ぎ、近代的な諸法典の整備と条約改正に尽力して強国化の道を歩み、最終的には欧米主要国と対等な地位を築いた点で稀有な事例といえる。
※この「アジア諸国の欧化のはじまり」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「アジア諸国の欧化のはじまり」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。
- アジア諸国の欧化のはじまりのページへのリンク