ようむ‐うんどう〔ヤウム‐〕【洋務運動】
洋務運動
洋務運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 04:01 UTC 版)
1873年、停止した英華書院の印刷機器を清の洋務派が買い取り、西法印書局(西法印書局)を創設すると、黄勝は自ら総理各国事務衙門まで届け、西方印書局の基礎をつくった。同年、学童のアメリカ留学事業の正監督陳蘭彬と副監督の容閎から第二陣の児童を送ってほしいとの依頼が黄勝のもとに届いた。黄勝は6月に30名の留学生を送り込んだ。その後もアメリカ公使館との交渉や留学事務にあたり、1876年に香港に戻るとき、朝廷から知府の官職を受け取った。
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洋務運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:22 UTC 版)
アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曽国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。
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