日清戦争以後とは? わかりやすく解説

日清戦争以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:57 UTC 版)

李鴻章」の記事における「日清戦争以後」の解説

光緒20年明治27年1894年)、李氏朝鮮対す宗主権巡って清と日本対立がより悪化した際、淮軍北洋艦隊練度では勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場取ったが、西太后の甥光緒帝始めとする両国主戦派によって戦端開かれ日清戦争始まった李鴻章予測通り淮軍北洋艦隊日本軍戦闘平壌の戦い黄海海戦)で連戦連敗11月北洋艦隊基地旅順陥落旅順口の戦い)、光緒21年明治28年1895年1月から2月かけても1つ根拠地威海衛日本軍落とされ威海衛の戦い)、腹心北洋艦隊提督丁汝昌自殺する及んで李鴻章権威失墜した日清戦争敗北後講和交渉全権任され李鴻章光緒21年3月から下関引接寺滞在し春帆楼通って伊藤博文陸奥宗光講和会議交渉行った3月24日李鴻章引接寺春帆楼を結ぶ道(現在の李鴻章道」)で小山豊太郎狙撃され負傷するという事件が起こった詳細李鴻章狙撃事件参照)ため、日本側は列国干渉をおそれ、まず休戦条約調印し4月17日日清講和条約下関条約)の調印行った。この条約朝鮮台湾遼東半島(後に三国干渉返還喪失賠償金支払い決められ、清は大きく威信低下した日清戦争では清の軍隊の中で戦争参加したのは北洋大臣指揮下の北洋艦隊で、事実上李鴻章軍隊であった北洋艦隊淮軍壊滅したに対して光緒帝李鴻章厳罰望んだ西太后寵臣であったため要職直隷総督北洋大臣)を外れ軽微な処分に留まっている。そして日清戦争の敗戦以って30年余り洋務運動挫折は明らかとなった阿片戦争以来の清の高官は、イギリス仮想敵国とみなす海防派代表的人物李鴻章)と、ロシア仮想敵国とみなす塞防派(代表的人物左宗棠)に分かれていた。李鴻章失態海防派打撃受けたが、塞防派は左宗棠死去により朝廷内に重鎮欠いており、海防派引き続いて要職占めた李鴻章程なくして西太后肝いりにより復権した。 光緒22年1896年3月28日ロシア要請応じる形でロシア皇帝ニコライ2世戴冠式出席のため上海を船で出発5月26日戴冠式出席6月3日ロシアとの交渉に当たり密約露清密約)を結び、事実上満州ロシア明け渡す結果になったこの後ヨーロッパ・アメリカ旅行して世界一周10月3日帰国した行く先々手厚いもてなしを受け、イギリス首相ソールズベリー侯外務政務次官ジョージ・カーゾン、元ドイツ帝国宰相ビスマルクらと会談したが、なんら外交的に成果はなく、儀礼的な訪問止まった帰国後は総理衙門大臣任じられドイツ帝国全権公使光緒24年1898年3月膠州湾租借条約の交渉締結にあたる。外交官としての役割残されたが、それも光緒24年1898年4月からの戊戌の変法取り組んだ光緒帝罷免され戊戌の政変政権奪い返した保守派から命令され黄河治水調査光緒25年1899年)に変法派摘発目的とした開港場調査両広総督任命および政務こなしている。光緒26年1900年)に起こった義和団事変の際には盛宣懐通して両江総督劉坤一湖広総督張之洞各地総督東南互保締結した後、政府から再び直隷総督北洋大臣任命全権任され慶親王奕劻と共に諸外国との交渉に当たり、光緖27年1901年9月7日辛丑条約締結しその後間もない11月7日病死した。諡は文忠。 死後直隷総督北洋大臣袁世凱受け継ぎ軍人政治家として台頭するとなった爵位侯爵昇叙され長男経述に継承次男経邁も京堂候補として遇され、孫で経述の息子国杰(1881年 - 1939年)は清朝最後の駐比利時欽差大臣(駐ベルギー公使)に任じられ、清滅亡後中華民国でも引き続き登用された。長女耦(1866年 - 1912年)の婿が張佩綸で、2人の子供に張志沂(1896年 - 1953年)が居りその子供が作家張愛玲である。また、甥の李経方養子迎えている。

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日清戦争以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 01:52 UTC 版)

林朝棟」の記事における「日清戦争以後」の解説

1894年日清戦争勃発すると、林朝棟台湾巡撫邵友濂の命を受け、獅球嶺砲台守備に就いていたが、巡撫唐景崧交代する台中異動となった1895年4月17日下関条約結ばれ台湾澎湖諸島日本への割譲決定した5月24日台湾各地郷紳支持のもと台湾民主国成立し唐景崧総統選ばれた。林朝棟4月家族とともに廈門避難していたが、単身台湾戻り日本軍への備え固めた。 しかし5月30日日本軍台湾上陸し唐景崧大陸逃亡した10日後に日本軍台北占領し林朝棟大勢は既に去ったとして彰化撤退して廈門渡った廈門渡った後は南洋通商大臣劉坤一指揮下に入り、軍を再建して海州駐留し、さらに全福建省団練管理任された。しかし1899年劉坤一北京に戻ると後任鹿伝霖合わず、官を辞して廈門戻って樟脳事業経営あたった1902年上海移住し1904年6月13日死去した享年54漳州葬られた。

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日清戦争以後

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西太后」の記事における「日清戦争以後」の解説

同治光緒両帝の在位期間西太后宮廷内において権力を掌握。表の政治においては、恭親王奕訢近く洋務運動呼ばれる西欧化政策推進する曽国藩李鴻章左宗棠張之洞ら洋務派官僚重責担った洋務運動一定の成果上げていた期間は同治中興呼ばれる。 しかし、洋務運動経済活動とリンクさせずに朝廷事業としての実施された例が多く持続的な発展欠いた。そして1895年日清戦争敗北により挫折が明白となる。 清朝敗北は、西太后が行っていた頤和園再建拡張に伴う莫大な浪費日清戦争総費用の約3倍にも上る)のために北洋艦隊予算大幅に削ったこと、海軍衙門予算内務府数百万両流用したこと、西太后の大寿(60歳)を祝う祭典多額出費日清戦争総費用の2倍以上)をさせたこと等を背景に、北洋艦隊海軍衙門予算不足し艦船操練が遅れ、設備更新等も行われなかったことが主要因とされている。 日清戦争の敗戦光緒帝実質的な親政開始に伴い西太后政治から身を引くことを表明したが、朝廷の上奏のうち重要印があるものは全て西太后元へ回され光緒帝発言動向宦官報告させ、重要施策についての懿旨単独で出すなど依然として権力持っていた。1896年には西太后寵愛する寇連材という宦官が、政権返還光緒帝親政見守る事・円明園修改築凍結海軍経費頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部送って処刑している。

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