日清戦争以後
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光緒20年(明治27年、1894年)、李氏朝鮮に対する宗主権を巡って清と日本の対立がより悪化した際、淮軍と北洋艦隊の練度では勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場を取ったが、西太后の甥光緒帝を始めとする両国の主戦派によって戦端は開かれ、日清戦争が始まった。李鴻章の予測通り淮軍と北洋艦隊は日本軍の戦闘(平壌の戦い、黄海海戦)で連戦連敗、11月に北洋艦隊の基地旅順が陥落(旅順口の戦い)、光緒21年(明治28年、1895年)1月から2月にかけてもう1つの根拠地威海衛も日本軍に落とされ(威海衛の戦い)、腹心で北洋艦隊提督の丁汝昌が自殺するに及んで李鴻章の権威は失墜した。 日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任された李鴻章は光緒21年3月から下関の引接寺に滞在し、春帆楼へ通って伊藤博文・陸奥宗光と講和会議の交渉を行った。3月24日、李鴻章が引接寺と春帆楼を結ぶ道(現在の「李鴻章道」)で小山豊太郎に狙撃され、負傷するという事件が起こった(詳細は李鴻章狙撃事件を参照)ため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、4月17日に日清講和条約(下関条約)の調印を行った。この条約で朝鮮・台湾・遼東半島(後に三国干渉で返還)喪失と賠償金支払いが決められ、清は大きく威信が低下した。 日清戦争では清の軍隊の中で戦争に参加したのは北洋大臣指揮下の北洋艦隊で、事実上は李鴻章の軍隊であった北洋艦隊と淮軍が壊滅した事に対して、光緒帝は李鴻章の厳罰を望んだが西太后の寵臣であったため要職(直隷総督・北洋大臣)を外れる軽微な処分に留まっている。そして日清戦争の敗戦を以って、30年余りの洋務運動の挫折は明らかとなった。 阿片戦争以来の清の高官は、イギリスを仮想敵国とみなす海防派(代表的人物が李鴻章)と、ロシアを仮想敵国とみなす塞防派(代表的人物が左宗棠)に分かれていた。李鴻章の失態で海防派は打撃を受けたが、塞防派は左宗棠の死去により朝廷内に重鎮を欠いており、海防派は引き続いて要職を占めた。李鴻章も程なくして西太后の肝いりにより復権した。 光緒22年(1896年)3月28日にロシアの要請に応じる形でロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式出席のため上海を船で出発、5月26日の戴冠式に出席、6月3日にロシアとの交渉に当たり密約(露清密約)を結び、事実上満州をロシアに明け渡す結果になった。この後ヨーロッパ・アメリカを旅行して世界一周、10月3日に帰国した。行く先々で手厚いもてなしを受け、イギリス首相ソールズベリー侯、外務政務次官ジョージ・カーゾン、元ドイツ帝国宰相ビスマルクらと会談したが、なんら外交的に成果はなく、儀礼的な訪問に止まった。 帰国後は総理衙門大臣に任じられ、ドイツ帝国全権公使と光緒24年(1898年)3月の膠州湾租借条約の交渉・締結にあたる。外交官としての役割は残されたが、それも光緒24年(1898年)4月からの戊戌の変法に取り組んだ光緒帝に罷免され、戊戌の政変で政権を奪い返した保守派から命令された黄河治水調査、光緒25年(1899年)に変法派の摘発を目的とした開港場の調査と両広総督任命および政務をこなしている。光緒26年(1900年)に起こった義和団事変の際には盛宣懐を通して両江総督劉坤一・湖広総督張之洞ら各地の総督と東南互保を締結した後、政府から再び直隷総督・北洋大臣に任命、全権を任されて慶親王奕劻と共に諸外国との交渉に当たり、光緖27年(1901年)9月7日に辛丑条約を締結し、その後間もない11月7日に病死した。諡は文忠。 死後、直隷総督・北洋大臣は袁世凱が受け継ぎ、軍人・政治家として台頭する元となった。爵位は侯爵に昇叙され長男の李経述に継承、次男の李経邁も京堂候補として遇され、孫で李経述の息子の李国杰(1881年 - 1939年)は清朝最後の駐比利時欽差大臣(駐ベルギー公使)に任じられ、清滅亡後の中華民国でも引き続き登用された。長女の李菊耦(1866年 - 1912年)の婿が張佩綸で、2人の子供に張志沂(1896年 - 1953年)が居り、その子供が作家の張愛玲である。また、甥の李経方を養子に迎えている。
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日清戦争以後
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1894年に日清戦争が勃発すると、林朝棟は台湾巡撫邵友濂の命を受け、獅球嶺砲台の守備に就いていたが、巡撫が唐景崧に交代すると台中に異動となった。1895年4月17日、下関条約が結ばれ、台湾と澎湖諸島の日本への割譲が決定した。5月24日、台湾各地の郷紳の支持のもと台湾民主国が成立し、唐景崧が総統に選ばれた。林朝棟は4月に家族とともに廈門に避難していたが、単身台湾に戻り日本軍への備えを固めた。 しかし5月30日に日本軍は台湾に上陸し、唐景崧は大陸に逃亡した。10日後に日本軍は台北を占領し、林朝棟は大勢は既に去ったとして彰化に撤退して、廈門に渡った。 廈門に渡った後は南洋通商大臣劉坤一の指揮下に入り、軍を再建して海州に駐留し、さらに全福建省の団練の管理を任された。しかし1899年に劉坤一が北京に戻ると後任の鹿伝霖と合わず、官を辞して廈門に戻って樟脳事業の経営にあたった。1902年に上海に移住し、1904年6月13日に死去した。享年54。漳州に葬られた。
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日清戦争以後
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同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内において権力を掌握。表の政治においては、恭親王奕訢と近く、洋務運動と呼ばれる西欧化政策を推進する曽国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞ら洋務派官僚が重責を担った。洋務運動が一定の成果を上げていた期間は同治中興と呼ばれる。 しかし、洋務運動は経済活動とリンクさせずに朝廷の事業としてのみ実施された例が多く、持続的な発展を欠いた。そして1895年の日清戦争の敗北により挫折が明白となる。 清朝の敗北は、西太后が行っていた頤和園の再建と拡張に伴う莫大な浪費(日清戦争の総費用の約3倍にも上る)のために北洋艦隊の予算を大幅に削ったこと、海軍衙門の予算を内務府へ数百万両も流用したこと、西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費(日清戦争の総費用の2倍以上)をさせたこと等を背景に、北洋艦隊・海軍衙門の予算が不足し、艦船の操練が遅れ、設備の更新等も行われなかったことが主要因とされている。 日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印があるものは全て西太后の元へも回され、光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部へ送って処刑している。
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