日清戦争まで
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1872年、海軍病院に「海軍病院学舎」を増設し、11名の医師にイギリスから招聘したアンダーソン医学博士による医術の手ほどきをさせたのがルーツである。9年にわたって医術教育は継続されたが、1881年に第1回卒業生を送り出したことを機にアンダーソン博士が帰国したため、教育が続行不能となってしまった。 そこで、高木兼寛医務局副長を中心とする日本人医療スタッフが自ら教鞭をとり、翌年に海軍医務局学舎を立ち上げ、10名の医師の指導を始めた。と同時に、軍医官依託学生制度を新設し、東京帝国大学医学部生7名を候補に挙げた。これが1886年に「海軍医学校」と改称された。改称とほぼ同時に芝山へ移転。海軍病院と離れてしまったため、臨床実験や実習は隣接する東京慈恵医院の協力を得た。東京慈恵医院は海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現ロンドン大学群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)で学んだ高木兼寛が松山棟庵と共に設立した医院であり、海軍とも関係が深い場所だった。 1889年には特認されていた私費学生制度を全廃する一方、薬剤官候補生の実習を始めている。 1894年3月に全生徒・候補生が卒業したため、医学校は廃止された。医学教育は海軍大学校に増設した軍医科で続行され、8名が編入された。
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日清戦争まで
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1859年、薩都剌を輩出した色目人の名門薩氏に生まれる。1869年(同治8年)、福州馬尾船政学堂に入学し、天文・操舵を学ぶ。1872年(同治11年)、首席で卒業し、軍艦での研修を重ねた。1877年(光緒3年)、イギリス・フランスへ留学し、船舶の建造と操舵を引き続き学ぶことになる。まず薩鎮氷はイギリスのグリニッヂ海軍学校で学び、この時、同国に留学していた厳復と交流を持った。卒業後、イギリスの軍艦に実習で乗船し、地中海・大西洋・アメリカ・アフリカ・インド洋など世界各地を航海した。実習終了後も、電気工学、銃砲、水雷などを学び、工場を見学するなどして見聞を広げている。 1880年(光緒6年)3月、留学を終えて帰国し、軍艦「澄慶」の一等航海士に任命された。1882年(光緒8年)、天津水師学堂の教習に任命された。この時、黎元洪が同学堂の学生で、薩鎮氷と黎は師弟関係となっている。1886年(光緒12年)、軍艦「威遠」の管帯(艦長)に任命される。1887年(光緒13年)、練習艦「康済」の管帯に異動した。1888年(光緒14年)、参将(大佐に相当)に昇進した。1894年(光緒20年)、副将位を授けられ、そのまま「康済」の管帯として北洋海軍精練左営遊撃に加わった。 同年7月、日清戦争(甲午戦争)が勃発すると、薩鎮氷は威海衛付近の日島を守備した。翌年2月、日本軍の攻撃を受けて、薩の「康済」も懸命に防戦したが、日島は陥落し、劉公島に退却、まもなく清の海軍全体が降伏した。
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