仮想敵は日本海軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 15:57 UTC 版)
1871年、直隷総督に転じた李鴻章(それまで彼は両江総督曽国藩の部下だった)が南洋水師から砲艦4隻を移管して創立。1860年、第二次阿片戦争(アロー戦争)で北京が侵略を受けた反省から、渤海湾沿岸、特に天津を列強の侵略から守ることを主任務とした。 しかし、1874年に台湾(台湾出兵)、1875年に朝鮮で日本が侵略行動(江華島事件)を起こすと、李鴻章は日本を第一の仮想敵として海軍の拡張を開始。黄海全域の防衛を目的に、1880年代、イギリスとドイツからの購入艦で「定遠」級以下、装甲艦2隻、巡洋艦8隻、砲艦12隻という、当時の東アジア最強の艦隊を編成した。また1881年に天津水師学堂も創設して海軍要員の育成にも着手した。 この間、1882年の壬午軍乱など朝鮮で緊張状態が生ずる度に、北洋水師は朝鮮半島沿岸に展開した。清朝は近代海軍の整備途上にある李氏朝鮮の宗主国でもあったので、これらの行動は日本に対する牽制であった。1884年には清仏戦争が起き、福建水師から北洋水師と南洋水師に救援要請が出た。李鴻章は当時手持ちの最有力艦、「超勇」「揚威」(日清戦争時の主力、「定遠」級以下は未完成、または回航中に抑留されていた)を台湾方面の警備に派遣した。しかし同年、朝鮮でクーデターが発生(甲申事変)すると、李は2隻に任務切り上げと朝鮮への急行を命じた。 こうして1880年代後半、日本との対決姿勢を強めていった李鴻章と北洋水師だが、水師は艦艇の調達、整備維持に弱点を抱えていた。傘下に大型艦の建造・整備が可能な造船所がなく、切り札の「定遠」「鎮遠」の整備ができるドックは1890年代まで東アジアには香港と長崎にしかなかった(旅順のドックは日清戦争まで完工しなかった)。どちらも当時の清朝にとって信頼できる国ではなく(軍艦の調達過程で、李鴻章はドイツ寄りになっていた)、特に対日関係が悪化する中での北洋艦隊の長崎回航は、外交問題を引き起こした(長崎事件)。 加えて、1880年代後半、北洋艦隊は予算不足に見舞われた。原因は予算が黄河の治水と、西太后の頤和園造営に回されたからという説明が一般的である。 このため1894年の日清戦争勃発時、北洋水師は兵員の訓練と弾薬の不足、そして装備更新の遅れに悩まされていた。
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