日本におけるスナイドル銃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 15:12 UTC 版)
「スナイドル銃」の記事における「日本におけるスナイドル銃」の解説
スナイドル銃は戊辰戦争期にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、先進的軍備の整備を目指した長岡藩や、仙台藩の額兵隊など幕府諸軍によっても使用された。また、後発で洋式軍制を導入した小藩が初期導入しているケースもあった(上山藩・郡上藩など)。 大倉組によると幕末に輸入された本銃は、当時の価格で一挺9ドル30セントであった。 戊辰戦争当時、日本に入っていたスナイドル銃の数は少なかったが、後装式で連射性に優れていたため、会津戦争での戸ノ口原の戦いでは僅か10挺のスナイドル銃が、旧式のゲベール銃を装備した会津藩白虎隊を打ち破るなどの活躍を見せた が、前装銃と全く異なる使用法に兵が戸惑う、といった問題点も明らかになった。 プロイセン製ドライゼ銃 米国製スペンサー騎兵銃 フランス製シャスポー銃 倒幕派諸藩が導入していた前装式エンフィールド銃に簡単な改造を施すだけで後裝銃を製造できたため、諸藩で改造が行われた。ただし、当時の日本での改造銃の多くはベルギー製のアルビニー銃 と同じ、薬室が前方に開閉する活罨式(かつあんしき)と呼ばれる方式だった。これはスナイドルの側面開放式よりもアルビニーの前方開閉式の方が改造が容易だったためである。よって厳密にはこれらは改造エンピール銃に含まれ、スナイドル銃とは明確に区別される。だが、薬室の方式に違いはあれど、ボクサー型の実包は共用可能であったので、スナイドル銃と混用しての運用には不都合は無い。 新生日本陸軍の誕生とともに、信頼性の高い金属薬莢を使用するスナイドル銃が主力装備とされ、陸軍の歩兵・工兵ならびに海軍(後にマルティニ・ヘンリー銃を採用)が装備し、大量に調達されていた記録や、集成館事業での蓄積で近代工業基盤が存在した鹿児島(旧薩摩藩)が弾薬を国産化して、ほぼ独占的に供給していたとの記録 が残されている。 スナイドル銃は西南戦争で政府軍の主力装備として用いられ、農民層からの徴兵を主体とする政府軍は銃撃戦で士族中心の薩軍と対峙したため、陸軍省は諸外国の商会を通じて大量の弾薬の調達に奔走し、清国から弾薬を借用する交渉まで進められていた記録が残されている。鹿児島にあった主装備を大阪に持ち去られ、草牟田や磯の火薬局・造船所から強奪した旧式のエンフィールド銃しか装備できなかった薩軍は、緒戦からスナイドル銃の連射能力の前に多大の出血を強いられ圧倒された。 西南戦争で大量に準備されたスナイドル弾薬は、西郷軍の鎮圧が終了した事で余剰となって大量にストックされていたため、1879年(明治11年)に各地の工廠に退蔵されていたエンフィールド銃の大部分をスナイドル式へ改造する作業が開始されている。 1880年(明治13年)にボルトアクション式の村田銃が開発されると、陸海軍ともに装備の更新が開始されるが、最重要部品である銃身を輸入に頼るなど未発達な工業基盤の下で製造された13年式村田銃の調達ペースは遅く、大量の弾薬備蓄を有したスナイドル銃も日清戦争まで二線装備として配備され続けた。 30年近くに渡って酷使されたスナイドル銃の中には、蝶番構造をつなぐピンが変形して開き難くなっていた物もあり、戦地では兵士には小型の木槌が一緒に配備され叩いて蝶番を開いていたと伝えられている。 日清戦争後、有坂成章が開発した無煙火薬を用いる三十年式歩兵銃が採用されると、完全に旧式火器となったスナイドル銃は引退し、学校教練用に払い下げられたり、村田銃などとともに清国[要検証 – ノート]や朝鮮などに供与されたが、太平洋戦争末期の本土決戦用に国民義勇隊に再配備され、兵器として再登場した事でも知られている。 先代:日本陸軍の建軍 日本軍制式小銃1871-1880 次代:村田銃
※この「日本におけるスナイドル銃」の解説は、「スナイドル銃」の解説の一部です。
「日本におけるスナイドル銃」を含む「スナイドル銃」の記事については、「スナイドル銃」の概要を参照ください。
- 日本におけるスナイドル銃のページへのリンク