日清戦争の敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 23:39 UTC 版)
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。上清帝第二書 1895年3月、日清戦争の敗戦の報を受けて、清朝の知識人たちは様々な反応を示した。なかでも、ちょうど科挙の試験(会試)のため北京に集まっていた受験生の内603名は、講和拒否や制度改革を求める上書(光緒帝への意見書)を連署で著し、下関条約批准の翌日の5月3日に提出した。この出来事を公車上書(中国語版)という。この公車上書を主導したのが、広東から来ていた受験生の康有為とその友人の梁啓超だった。康有為は前歴として、1888年にも上書を提出していた(第一上書)。したがって、公車上書は二度目の上書だった(第二上書)。なお、上書はその後も1898年まで数回行われた。 公車上書(第二上書)は結局、政府に拒まれて光緒帝に届くことはなかったが、書物として刊行されて広く読まれた。また政府内部にも、翁同龢のように康有為に親和的な改革派官僚もいた。 公車上書が終わった後も、康有為らは北京に留まり、政治団体の強学会を結成した。強学会は、上海支部も作られたが、会報において年号と孔子紀年を併記していた等の理由から政府の弾圧を受け、1896年1月に解散してしまう。しかし、この強学会の関係者たちが、その後の変法自強運動を主導していくことになる。
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