台湾平定宣言まで
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1894年7月1日、清朝は日本が開戦とともに台湾を攻撃することを予防するために台湾の警戒を命じた。さらに7月24日、福建水師総督の楊岐珍と、広東南澳鎮総兵劉永福を台湾に派遣し、楊を幇弁台湾防務に任じた。その後人事の異動がいくつかあり、唐景崧が台湾巡撫として台湾防衛にあたった。また清朝は台湾で教師をしていた丘逢甲に義友軍を組織させた。 11月、日清戦争の敗戦が濃厚になるころ日本の台湾領有の意図を察知した張之洞と弟子の唐景崧は、清朝の防衛線を維持を目的とし、日本への割譲を回避するために外国の介入を導くために台湾をイギリスやフランスに貸し出すなど様々な案を練っていた。 1895年1月、日本の勝利が確定的になると清はイギリス、アメリカを仲介として、終戦条約を打診したが遼東半島、台湾領有を目指していた日本は受け入れず戦争は続いた。3月下旬、終戦交渉が行われるなか、澎湖を日本軍が制圧した。3月30日の日清休戦定約でも台湾は休戦地域から外されていた。清朝内部では割譲反対派と、講和のためには必要だとする一派に議論が分かれていた。実際に交渉の談では清朝側は当初、実際に占領された奉天の一部や澎湖はともかく、まったく兵の及んでいない台湾については全面拒否、二度目は部分的な割譲なら受け入れるという返答を返した。 4月17日の下関条約での日本への割譲が決まると、台湾の士紳ら不平勢力は清朝に対し上奏し、また唐にたいして交渉し台湾に在留することを求め、4月23日の三国干渉による遼東半島の還付を知り、列強の干渉による帰朝に望みを託した。 5月1日、清朝は在仏の王之春に台湾割譲阻止を狙った交渉をフランスと始めるように指示した。 5月3日、こうした情勢をうけ李鴻章は再度台湾割譲見直しについての再協議を持ちかけたが、伊藤博文はそれを拒否し、5月10日樺山資紀を台湾総督と軍務司令官に任じた。台湾の文武官と商人たちは張之洞の腹案であった清朝内部に留まり抵抗するという策を破棄し独立国として抵抗することを決め、5月25日、唐景崧を総統、劉永福を大将軍とする台湾民主国の建国が宣言された。唐は清朝の文武官に去就を明かにさせたところ、他の多くの官僚とともに楊とその配下の部隊は帰国した。また劉永福は台南へ本拠地を移した。 一方で、当時の台湾の状況には異論が存在する。1904年9月25日のニューヨークタイムスは当時の台湾の状況を「清国や諸外国の無法者が逃げ隠れる巣窟」「清朝は入殖後も事実上この土地を放置し、その荒涼な無法者天国を放任状態に置いた」として治安が悪かったことを伝えている。また台湾近海を航行する諸外国の船舶が殺害、略奪される海賊行為が繰り返されたため、米国をはじめとする諸外国が清国に苦情を訴えていたことを紹介し、そのため清朝は日本への台湾割譲を喜んだだろうとしている。 5月26日、樺山資紀は台湾民主国建国宣言の報をイギリス汽船から得ると、授受式を待たずに基隆を攻略することを決定した。上陸付近に駐屯していた台湾民主国軍はほぼ無抵抗であったが、31日の三貂嶺で若干の抵抗があった。 6月2日清側の割譲責任者であった李経芳は割譲反対派に暗殺されるのを恐れ上陸せず、基隆沖で樺山との間に台湾接受の手続きを行った。このとき、李の台湾授受公文の草案にあった台湾民主国についての文言は、民主国を認めることと同義であると樺山は削除した。6月4日、日本政府は各国領事館などに日本が台湾を領有したので台湾海峡間の交易は安全であると伝えた。
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