台湾征討(乙未戦争)への参加と台湾総督への就任
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「乃木希典」の記事における「台湾征討(乙未戦争)への参加と台湾総督への就任」の解説
詳細は「乙未戦争」を参照 明治28年(1895年)5月、台湾民主国が独立を宣言したことを受け(同年4月に日清間で結ばれた下関条約により、台湾は日本に割譲されている)、日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出した。乃木率いる第2師団も台湾へ出征した。 明治29年(1896年)4月に第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過した10月14日、乃木は台湾総督に任じられた。乃木は、妻の静子および母の壽子を伴って台湾へ赴任した。乃木に課せられた使命は、台湾の治安確立であった。 乃木は、教育勅語の漢文訳を作成して台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込むよう努力し、日本人に対しては現地人の陵虐および商取引の不正を戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めた。 一方で乃木は殖産興業などの具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができなかった。次第に民政局長・曾根静夫ら配下の官吏との対立も激しくなり、乃木の台湾統治は不成功に終わった。 明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難であった。 乃木による台湾統治について、官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは、後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平にとって大いに役立ったと評価されている。台湾の実業家である蔡焜燦は「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって、支配側の綱紀粛正を行ったことは、台湾人にとってよいことであった」と評価する。
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