終戦交渉
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1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。 1945年(昭和20年)4月、東郷は終戦内閣である鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任する。「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」という鈴木貫太郎首相の言葉を受けて入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなどの状況となっていたにもかかわらず、陸軍を中心に本土決戦が叫ばれ、事態は猶予のない状態になっていた。
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