トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻
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「日本への原子爆弾投下」の記事における「トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻」の解説
ルーズベルトが急死したことによって、急遽、副大統領だったトルーマンが大統領に昇進した。 ナチス・ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている。 バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持しており、天皇の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官グルー、陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・J・マクロイに対して、バーンズは「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」と述べる。 1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。 1945年7月1日、チャーチルがアメリカによる日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、後に英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。打診は、アメリカが核兵器開発に成功してもイギリスが同意しなければ使用できないなどと定めた1943年8月の「ケベック協定」に基づく。なお、原爆投下前にチャーチルは首相を退任している。 さらに1945年7月12日、シカゴ大学冶金研究所で原爆の対日使用に関するアンケートがあった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出したが、原爆投下前にトルーマンに届けられることはなかった。マンハッタン計画の指揮官であるグローヴス陸軍少将が請願書を手元に置き、大統領に届かないように妨害したためであった。 軍人では、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを、1945年7月20日にトルーマンに進言しており、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的で、ロタ島への爆撃を示唆している。 また連邦政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。また、大統領だったトルーマン自身も、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と書いていたため、市民の上への原爆投下には反対していたことが明らかになっている。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかしマンハッタン計画の責任者だったグローヴスは、原爆による最大の破壊効果を得たいが為に「広島は軍事都市である」との偽装した報告書を提出した挙げ句、勝手に原爆投下指令書を作成した(当然ながら大統領だったトルーマンがそれを許可した証拠はない)[要出典]。そして、ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、原爆開発をした科学者たちに対し「君たちを誇りに思う。」とねぎらったという。
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