フランクレポート
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フランクレポート (Franck Report) は1945年6月11日にシカゴ大学に設けられた7人の科学者による委員会が、原子エネルギー、特に原子爆弾の社会的、政治的影響を検討して大統領の諮問委員会に提出した報告書である。 報告書では、戦後の核管理体制実現の重要性とともに、日本に対する原子爆弾の無警告での使用に反対していたが、提議は拒絶された。
- ^ ウィアート, S. R., シラード, G. W. 編『シラードの証言: 核開発の回想と資料 1930–1945年』伏見康治, 伏見諭 訳、みすず書房、1982年。ISBN 4-622-02430-6。 pp.235–241.
ローズ, リチャード『原子爆弾の誕生』神沼ニ真、渋谷泰一訳、啓学出版、1993年。 紀伊國屋書店、1995年。〈下巻〉ISBN 4-314-00711-7, p.400–406. - ^ Steiner, Arthur (1975). “Baptism of the Atomic Scientists”. Bulletin of the Atomic Scientists 31 (2): 21–28.
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Feis, Herbert (1966). The Atomic Bomb and the End of World War II. Princeton, NJ: Princeton University Press. p. 51. ISBN 978-0-691-01057-1 (pbk)
Lanouette, William (1992). Genius in the Shadows: A Biography of Leo Szilard, the Man Behind the Bomb. Charles Scribner's Sons.. pp. 267–268. ISBN 978-0-684-19011-2 (1994) University of Chicago Press, ISBN 978-0-226-46888-4 (pbk). 引用は Lanouette より訳出。 - ^ Schollmeyer p.39, The legacy.
Rabinowitch, Eugene (1964). “James Franck, 1882–1964; Leo Szilard, 1898–1964”. Bulletin of the Atomic Scientists 20: 16–20 . - ^ Compton, A. H., E. O. Lawrence, J. R. Oppenheimer, and E. Fermi. “Recommendations on the Immediate Use of Nuclear Weapons, June 16, 1945”. Leo Szilard Online. 2010年8月26日閲覧。
- ^ Rhodes, Richard (1986). The Making of the Atomic Bomb. New York: Simon & Schuster. ISBN 0-684-81378-5 (pbk) pp.642–651 (ローズ, リチャード『原子爆弾の誕生』神沼ニ真・渋谷泰一訳、啓学出版、1993年。 紀伊國屋書店、1995年。〈下巻〉ISBN 4-314-00711-7, pp.412–424).
- ^ Schollmeyer p.39, The legacy.
- ^ ウィアート, S. R., シラード, G. W. 編『シラードの証言: 核開発の回想と資料 1930–1945年』伏見康治, 伏見諭 訳、みすず書房、1982年。ISBN 4-622-02430-6。 pp.243–245.
- 1 フランクレポートとは
- 2 フランクレポートの概要
- 3 参考文献
フランク・レポート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/13 02:14 UTC 版)
「フランク・レポート」も参照 この決定は、6月12日ごろスティムソンらにシカゴ大学冶金研究所の一部の科学者グループから届けられた報告書によって多少なりとも再議論の対象となった。 この報告書フランク・レポートは、原爆の実戦使用に対しての懸念が強かった冶金研究所において、アーサー・コンプトンが科学顧問団で討議し暫定委員会に結果を報告することを約束に設置した委員会から生まれてきたものであった。 報告書には、デモンストレーション、すなわち無人地域における原子爆弾の爆発実験を他国に公開すべきであるという提案が盛り込まれていた。 科学顧問団の4人の科学者は、デモンストレーションが戦争を終らせるのに十分なものとなりうるのかどうか6月16日にロスアラモスで行われた会合で議論している。 夜まで続いた議論の結果、顧問団の委員会への公式報告は次のような否定的なものであった。 これらの爆弾の最初の使用に関する我々科学者の同僚の意見は、完全に一致したものではなく、純粋に技術的なデモンストレーションを行うべきという提案から、最も効果的に降伏を促すよう軍事的に活用すべきという提案までの幅がある。 純粋に技術的なデモンストレーションを主張する提案は、原子爆弾の使用を〔国際的に〕非合法化しようと望んだものであり、もし我々が今この兵器を使用すれば、将来の交渉における我々の立場に不利益をもたらすであろうことを恐れたものである。 他の者は、即時の軍事的使用によりアメリカ人の生命を救う機会がもたらされることを強調し、こうした使用が国際的な将来の見通しをも改善するものと信じている。 そこでは、この特定の兵器の廃絶よりも戦争の抑止により大きな関心がある。 我々は自分たちがこの後者の見方に近いところにいるのだと理解する。 すなわち、我々は、この戦争の終結をもたらすような技術的デモンストレーションを提案できず、直接の軍事的使用に代わる受け入れ可能な代替案を見出せない。 この報告より前、オッペンハイマーは暫定委員会に報告を求められていることを説明した上で、親しい同僚の科学者に原爆の使用についての意見を求めている。 問われたロバート・R・ウィルソンは、原爆を使用するべきではなく、日本は何らかの方法で警告を受けるべきだと答え、数週後に予定されていた初の核実験(トリニティ実験)に日本人を呼んではどうかと提案した。 オッペンハイマーはその答えに「もし、爆発しなかったときは〔どうするのか〕?」と返している。 歴史学者シャーウィンらは、オッペンハイマーが同僚の多くがデモンストレーションに賛成していたことを知っていたはずだとし、原爆を直接使用するという結論に彼が導かれた理由を、この戦争で原爆を使用することがすべての戦争を廃絶させるとオッペンハイマーが確信するようになっていたからだと説明する。 一方、後にオッペンハイマーは、自分達が当時の基本的な軍事状況も、日本が他の方法で降伏しうるかも、日本本土侵攻が本当に避けられないものだったかについても無知だったとし「我々の心の奥に侵攻が避けられないという考えがあったのは、そう聞かされていたからだ」と述懐している。 この科学顧問団の報告は6月21日の暫定委員会の会議で検討され、結果5月31日と6月1日の会議での結論を再確認している。
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