請願書と原爆投下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:41 UTC 版)
この頃には、すでに日本への原爆投下が避けられないことがシラードらには明らかなものとなっていた。フランク・レポートがうまくいかなかったことを認識したシラードは、効果を発揮する可能性は小さいだろうと知りつつ、人道的見地を根拠として日本への原爆使用に反対する大統領への請願書 (Szilard petition) を独自に起草し、幾度かの書き直しを経て7月17日に冶金研究所の科学者に回覧し70名弱の署名を集めた。またマンハッタン計画のオーク・リッジ・サイトへも写しが送られ署名を得たが、ロス・アラモスでは、エドワード・テラーがその扱いを相談したオッペンハイマーの反対により回覧されることはなかった。この請願書はやはり軍の反発を受けることとなり、軍を介した正規のルートで送られることになった。しかし、請願書は8月1日まで計画指揮官のグローブズの元に留め置かれ、その後スティムソン長官のオフィスへ届けられたものの、このときスティムソンはポツダム会談のため大統領とともに海外におり、原爆投下後まで目にされることはなかった。 シラードは広島と長崎への原爆投下のニュースによってその努力が報われなかったことを知った。後の妻ゲルトルート・ヴァイスへの8月6日付けの手紙の中では、この行為が「10年単位の現実的な観点で見ても、人道的な見地においても、史上最悪の過ち」であると述べている。長崎への原爆投下直後には大学礼拝堂付きの牧師へ2つの都市の犠牲者に対する祈祷と生存者への献金の呼びかけを願い出で、またシカゴ大学学長であったロバート・ハッチンス (Robert Hutchins) を通じて戦後世界における原子爆弾の意味について討議する有識者会合を9月に行った。さらにアメリカとソ連の科学者による討論によってソ連との協定づくりがより現実的なものとなると考え、双方の会議を構想したが国務長官バーンズの反対で実現はしなかった。 1945年10月、陸軍省は戦後も軍主導で原子力の管理を行う委員会の設立を目指して原子エネルギー管理法案(メイ=ジョンソン法案)を議会に提出した。この頃計画に参加した科学者の原爆に関する発言は依然として軍から封じられていたが、それが法案を容易に通すためのものであることを知ったシラードは憤慨し、その事実を新聞へ暴露した。その後この問題は科学者の間に広がりを見せ、結局、文民統制を主軸とした原子力委員会の設置に繋がった。
※この「請願書と原爆投下」の解説は、「レオ・シラード」の解説の一部です。
「請願書と原爆投下」を含む「レオ・シラード」の記事については、「レオ・シラード」の概要を参照ください。
- 請願書と原爆投下のページへのリンク