終戦以降
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戦後、1950年(昭和25年)に駐留米軍や牧師の影響で英男とキリスト教に入信し、1959年(昭和34年)に夫婦で西戸崎バプテスト教会内にさざなみ幼稚園を設立し、1997年(平成9年)に閉鎖するまで運営した。その後も夫婦で餅屋の切り盛りをしていたが、63歳の時に隠居。その間、いとことハワイ旅行に出かけたり、子供や孫の元へ出かけたりしたという。また、1970年代に結婚50年を記念してロサンゼルスに行ったり、カリフォルニア州とコロラド州の親戚を訪ねたことがある。1970年(昭和45年)には生花店を始め、80歳手前になるまで働き続けた。その後も102歳で施設に入所するまで店頭に立つことがあった。 70年以上連れ添った夫の英男は晩年に認知症を患い、腹膜炎で入院した末に1993年(平成5年)2月9日死去、90歳没。2005年(平成17年)5月5日、家業を継いだ長男の信男が大腸癌により死去、80歳没。同年、102歳で福岡市東区の有料老人ホーム「グッドタイムホーム1・海の中道」に入居した。田中が107歳を迎えた2010年(平成22年)に、その人生の歩みを綴った伝記を次男夫妻が自費出版した。 何度か大病を患ったことがあり、1938年(昭和13年)7月にパラチフスに養女とともに感染。45歳で膵臓癌の手術、76歳で胆石の除去手術、90歳で白内障手術を経験。また有料老人ホーム入所後も103歳で大腸癌の手術を経験した。 117歳頃まで手押し車を押しながらの歩行が可能であった。2021年1月2日の118歳の誕生日時点でも食欲は旺盛で、当日も粥(かゆ)や野菜スープなどを食べたほか、老人ホームの職員から「誕生日おめでとうございます」と声をかけられると手を叩いて喜び「ありがとう」「みんな拍手してください」などと話した。 2021年9月、朝日新聞による老人の日に際した取材で、眠っている時間が長くなり日常会話が難しくなっているが、職員の問いかけには親指を立てるサインで答えるなどしており、施設内ではオセロに興じ、「おなかがすいた」などと話すこともあると報じられた。また、家族によると、夏に一時体調を崩して入院したが、9月までに退院したという。また、同時期に厚生労働省が発表した資料によると、車いすでの移動が多くなったものの、大好物のコーラやチョコレートを食べているという。
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終戦以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:22 UTC 版)
新家国民学校は戦災による地域の人口減少のため、戦前には千数百人いた児童が百人以下に減少し、1946年度の初等科新1年生の入学者は数人となった。西野田国民学校から高等科の男子児童を受け入れたものの、初等科の児童数が少ないために学校運営に支障をきたすとして、翌1947年に吉野国民学校(大阪市立吉野小学校)へと統合する形で休校(のち正式に廃校)となった。 一方で吉野国民学校は1945年6月1日の第2回大阪大空襲で校舎を半焼したものの、学校再開には支障はなかった。学制改革により、吉野国民学校は1947年4月1日、大阪市立吉野小学校へと改編された。 学制改革と同時に高等科は廃止され、吉野・新家両校の高等科児童の大半は、新家国民学校跡地を転用して同年に設置された新制大阪市立新家中学校(現・大阪市立野田中学校)へと編入学した。
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