29年ぶりの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 20:34 UTC 版)
だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された23歳の謎の自称冒険家・鈴木紀夫が単独でルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。日の丸を掲げてテントを張っていた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられた。鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えた。落ち着きを取り戻し銃を置いた小野田は鈴木と話して夜を明かし、小野田は上官の命令解除があれば任務を離れることを了承した。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。 その後3月4日に、鈴木とともに小野田の元上官谷口義美(元陸軍少佐)がルバング島に渡り、3月9日に小野田は2人の前に姿を現し、谷口による任務解除命令を受けて投降した。この際、谷口が任務解除の命令(「尚武集団作戦命令」と「参謀部別班命令」)を小野田に伝達した。小野田は戦争が続いていると思っていたため、最初その命令も偽装や偽情報ではないかと疑い、しばらくしてやっと任務が解除されたことに納得したと後に回想した。 3月10日の夜、小野田は軍刀を持ってフィリピン軍レーダー基地に移動し、ホセ・ランクード司令官に対して投降式を行った。徒歩で移動する間、小野田を憎む住民らに小野田らが襲撃されることを予防するため、フィリピン空軍将校2名が同行した。司令官が小野田から軍刀を受け取り、小野田に返却するという儀式の後、記者会見が開かれた。 翌日小野田は大統領フェルディナンド・マルコスとマラカニアン宮殿で面会した。マルコスは小野田がフィリピンで犯した犯罪行為について恩赦を与えた(小野田ら残留兵による略奪・殺人・放火に苦しめられた島民は少なくなかった)。 この時に交わされた外交文書によれば、日比両政府による極秘交渉の中で小野田ら元日本兵により多数の住民が殺傷されたことが問題視され、フィリピンの世論を納得させるためにも何らかの対応が必要とされたという。フィリピンに対する戦後賠償自体は1956年の日比賠償協定によって解決済みとされていたが、小野田によるフィリピン民間人殺傷と略奪のほとんどは終戦以降に発生したものであり、反日世論が高まることへの懸念から、日本政府はフィリピン側に対し「見舞金」という形で3億円を拠出する方針を決定した。 こうして、“約30年間”にも渡る小野田にとっての大東亜戦争が終わり、1974年(昭和49年)3月12日に日本航空の特別機で日本の羽田空港へ帰国を果たした。
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