29歳での隠居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 08:49 UTC 版)
対して重賢は同年11月、養父・重清の弟である結崎玄入の長男・市三郎(のちの13世観世大夫重記)を代わって養子に迎えた。市三郎は「織部」を名乗って観世座の後継者となり、翌1686年(貞享3年)には重賢の代役を無事勤め上げる。 ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。 なお異例の隠居を認めさせるに当たっては、綱吉のお気に入りであった兄・宝生大夫友春の助力もあった可能性が指摘されている。
※この「29歳での隠居」の解説は、「観世重賢」の解説の一部です。
「29歳での隠居」を含む「観世重賢」の記事については、「観世重賢」の概要を参照ください。
- 29歳での隠居のページへのリンク