小塚金七とは? わかりやすく解説

小塚金七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 20:34 UTC 版)

小野田寛郎」の記事における「小塚金七」の解説

小塚金七(こづか きんしち Kinshichi Kozuka 1921年 - 1972年10月19日)はルバング島守備隊生き残り少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵1921年東京府八王子市生まれる。1936年八王子尋常高等小学校(現・八王子市第七小学校卒業後、農業従事1939年八王子工機青年学校入学しその後応召1944年6月11日近衛歩兵第1連隊入隊し同年7月フィリピン派兵され、独立歩兵359大隊編入終戦したことを知らず戦闘続け日本政府による捜査発見できずに、1947年1959年死亡通知出された。 1972年10月19日起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で肩を撃たれ38式歩兵銃落とし、さらに胸を撃たれ倒れる。小野田小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察隊の攻撃抑え倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51最終階級上等兵小塚死に対し小野田は「復讐心が高まった目の前で30年もの戦友殺され時の口惜しさなんてものはない」と後年怒り込めて述べている。小塚三八式歩兵銃は、小野田日本帰還後小塚両親渡したと言われている。また、手元には1959年厚生省現地撒いた投降勧告ビラが遺されてあったと言われる同年11月4日に、八王子市民葬が執り行われた。 母親には手紙渡していたと言われ息子の死に際して母親は「人生わずか50年、その半数異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングル27年祖国の為と御奉公甲斐むなしく昭和47年10月19日、命と共に消へ失せる悲しき最後あまりにも哀われです。」と手記残した後日小塚所有していた銃弾42発を警察庁入手発射実験行ったところ、弾薬庫においても寿命10年程度弾丸が、30年以上たってもなお半数以上が発射できたという。 2005年8月13日フジテレビ系列放送されドラマ実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、西島秀俊彼の役を演じた。また彼のことは、若一光司著書最後戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』(河出書房新社1986年7月)に詳しく書かれている

※この「小塚金七」の解説は、「小野田寛郎」の解説の一部です。
「小塚金七」を含む「小野田寛郎」の記事については、「小野田寛郎」の概要を参照ください。

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