小塚金七
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小塚金七(こづか きんしち Kinshichi Kozuka 1921年 - 1972年10月19日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。1921年、東京府八王子市に生まれる。1936年に八王子尋常高等小学校(現・八王子市立第七小学校)卒業後、農業に従事。1939年に八王子工機青年学校に入学し、その後応召。1944年6月11日近衛歩兵第1連隊に入隊し、同年7月にフィリピンに派兵され、独立歩兵第359大隊に編入。終戦したことを知らずに戦闘を続け、日本政府による捜査も発見できずに、1947年と1959年に死亡通知が出された。 1972年10月19日に起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で肩を撃たれて38式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察隊の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。最終階級は上等兵。小塚の死に対し小野田は「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」と後年怒りを込めて述べている。小塚の三八式歩兵銃は、小野田が日本帰還後に小塚の両親に渡したと言われている。また、手元には1959年に厚生省が現地で撒いた投降勧告ビラが遺されてあったと言われる。同年11月4日に、八王子市民葬が執り行われた。 母親には手紙を渡していたと言われ、息子の死に際して、母親は「人生わずか50年、その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年、祖国の為と御奉公の甲斐むなしく昭和47年10月19日、命と共に消へ失せる悲しき最後、あまりにも哀われです。」と手記を残した。 後日、小塚が所有していた銃弾42発を警察庁が入手。発射実験を行ったところ、弾薬庫においても寿命10年程度の弾丸が、30年以上たってもなお半数以上が発射できたという。 2005年8月13日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、西島秀俊が彼の役を演じた。また彼のことは、若一光司の著書『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』(河出書房新社、1986年7月)に詳しく書かれている。
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