帰国以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 20:34 UTC 版)
1950年 - フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員庁では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。 1951年 - 赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定なため救出活動は行えず。 1954年 - フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。 1954年5月、1958年、1959年5 - 12月 - 赤津元一等兵など投降者の証書に基き援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。 1959年(昭和34年)12月11日 - 戸籍法89条に基づいて厚生省引揚援護局は12月10日に「死亡日・昭和29年5月8日」として「死亡公報」を出し、翌11日に公示された。なお、これに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。 1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。靖国神社に合祀。 1972年1月 - アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。 1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にてフィリピン警察官に小塚金七元一等兵が射殺される。 1972年10月22日 - 25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員および小野田と小塚の家族、戦友が逐次ルバング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵であることを確認する。小野田の捜索が行われるが発見には至らず(後に小野田は捜索隊の存在を認知し、また密林の中で兄の姿を目撃していたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していたことを告白している)。同年、厚生大臣・塩見俊二は、自らルバング島に渡り、小野田救出の活動にあたった。 1973年3月 - 第三次捜索隊が結成される。二俣分校で隣のベッドで寝起きしていた増田民男(当時陸上自衛隊二佐)なども参加した。小野田の父も参加を希望したが、高齢であることから厚生省が断った。日本政府が中心になって行われた合計3度の捜索活動は延べ1万7,270人(うち日本から106人を派遣)を動員し、9,021万円の国費をかけて捜索したが小野田を見つけることはできず、4月に打ち切られた。 1974年 - 一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田との接触に成功。3月にフィリピン軍に投降し、日本に帰国。
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