帰国の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:04 UTC 版)
「ベンジャミン・バサースト (外交官)」の記事における「帰国の道へ」の解説
10月14日、オーストリアがフランスとシェーンブルンの和約を締結、和約でオーストリアとイギリスの国交断絶が規定された。バサーストは10月24日にクレメンス・フォン・メッテルニヒから和約のコピーを与えられると、重要な文書をもってブダを離れ、帰国しようとした。しかし、自身がナポレオンに命を狙われると恐れたため、北回り(ベルリン、ハンブルク経由)か南回り(トリエステ、マルタ経由)のルートで帰国するかについて数日間躊躇した。トリエステがフランスに占領されたこともあって、バサーストは北回りのルートをとることを決め、道中でコッホ(Koch)の偽名を名乗ってハンブルク出身の商人を装い、秘書ヨーゼフ・クラウゼ(Josef Krause)にもフィッシャー(Fischer)の偽名を名乗らせたほか、従者ヒルベルトも随行した。また、出歩くときはピストルを持つようにしており、馬車にも銃を配備した。バサーストはオーストリアにプロイセン経由で帰国するためのパスポートを申請したが、メッテルニヒに拒否された。 バサーストは11月10日の午前5時にブダから出発してベルリンに向かい(プラハ、ドレスデン経由)、20日に到着した。ベルリンではイギリス領事ジョージ・ゴールウェイ・ミルズ(George Galway Mills、1765年10月22日 – 1828年2月14日)と連絡をとらなかったが、男性2人に手紙を届けた。バサーストのパスポートは偽名で発行されたが、バサースト自身はドイツ語をほとんど話せず、ぜいたくな服装や4頭立ての馬車から上流社会の外国人であることは明らかだった。クラウゼがバサーストの妻に述べたところでは、バサーストはブダを発つとき直前からベルリンに到着するまで元気だったが、ベルリンに到着したときから顔が青くなり、病気になった様子だった。さらに知人の在プロイセンオーストリア大使(ドイツ語版)ヨハン・フォン・ヴェッセンベルク(英語版)が(おそらくケーニヒスベルク滞在中で)ベルリンにいないことを知ると、メッテルニヒがパスポート発給を拒否したこともあって自身がフランスに突き出されるかもしれないと恐れるようになった。ヴェッセンベルクには会えなかったが、ベルリンに滞在していたオーストリア暫定大使ルイ=フィリップ・ド・ボンベル(英語版)とは会っており、2人は一緒に夕食をとった後、観劇に行った。ボンベルは後にバサーストの妻に対し、バサーストが腹痛を訴えてあまり食べなかったが、落ち着いた様子ではあったと述べている。また、プロイセン王国政府がバサースト一行にパスポートを発給したが、これはボンベルの尽力によるとされる。 一行は11月23日の早朝にベルリンを発ち、約160マイル先のハンブルクに向かった。バサーストの病状は悪化を続け、24日の夜中には突如毒を入れられたと叫び、クラウゼから「でしたら、あなたと同じものを食べ、同じ薬を飲んだ私も毒を入れられたのでしょう」と返答されるという出来事があった。
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