帰国と陳其美の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)
孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は四つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように蔣介石へ連絡してきた。蔣は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。 蔣介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。蔣は酒もたばこも嗜まないストイックな人物とされるが、この時期の蔣は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の蔣経国は渓口鎮の実家におり、蔣経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に蔣介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、蔣緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。 1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。蔣介石はすぐに山田邸に駆けつけ、遺体をなでながら、体を震わせて泣いた。そして、山田邸に掲げられていた陳其美の筆による「丈夫不怕死 怕在事不成(丈夫は死をおそれず、事の成らざるをおそる)」の言葉を何度も口ずさんだという。葬儀では、陳其美の遺志を継ぐという趣旨の追悼文を読み上げた。陳は生前、孫文に対して「蔣介石こそが自分の後継者である」と書簡を送っていた。保阪正康は陳の死によって孫文の蔣介石に対する見方が変わっていったとする。 陳其美が暗殺された1916年から、孫文に呼び出される1918年までの蔣介石の動向は、公式記録上では詳細ではない。しかし、この頃は上海にいて、陳其美が残したルートから青幇と交流を持ち、また証券取引所に出入りするなど、革命資金の調達に奔走していたとされる。
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