帰国と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:03 UTC 版)
「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の記事における「帰国と結婚」の解説
1862年にウォレスはイギリスに帰国し姉ファニーとその夫トーマスと供に暮らし始めた。旅行のコレクションを整理しロンドン動物学会のような会合で探検と発見について多くの発表を行った。同年暮れにダーウィンの自宅を訪ねた。ダーウィンを通してチャールズ・ライエルとハーバート・スペンサーとも友人となった。1860年代を通してウォレスは自然選択説を擁護する論文を書き、講義を行った。 彼はまた様々な話題についてダーウィンと文通した。その中には性選択、警告色、自然選択が交雑と種の多様性に果たす役割などが含まれる。1865年に心霊主義に関する調査を始めた。 1864年に若い女性への一年間の求婚の末、婚約にたどり着いた。しかしその婚約は破棄された。ウォレスの自伝ではミス・Lと呼び、ひどく狼狽したことだけが記されている。1866年にアニー・ミッテンと結婚した。アニーはコケ学者ウィリアム・ミッテンの娘で、ブラジルで友人となったリチャード・スプルースの紹介で知り合った。1872年にエセックスに借りた土地にコンクリート造りの家を建て、1876年まで過ごした。ウォレスには三人の子どもがいた。ハーバート(1867-1874)、バイオレット(1869-1945)、ウィリアム(1871-1951)である。 1860年代と1870年代にはウォレス家の家計は危機的状況にあった。マレー諸島の標本の売り上げはかなりの額になり、代理人は慎重に投資に用いたが、帰国後のウォレスは大部分を鉄道と鉱山へ投資して浪費し『マレー諸島』の収入に頼るしかなかった。友人の口添えにもかかわらず博物館の理事のような終身の有給職につくことができなかった。 1872年から1876年の間に政府のために25の論文を書き、ダーウィンやライエルらの著作の編集を手伝うことでも現金収入を得たが、1876年には出版社から500ポンドの前借りをしなければならないほど困窮していた。ウォレスの科学への貢献と彼の困難な状況をよく知っていたダーウィンは長い間、強く政府へ年金支給を働きかけた。1881年に200ポンドの年金が支払われることになり財政状況は安定した。
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