帰国と親政、再婚問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:04 UTC 版)
「メアリー (スコットランド女王)」の記事における「帰国と親政、再婚問題」の解説
1560年12月5日、フランソワ2世が16歳で病死した。子供ができなかったメアリーは、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国した。メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とした。当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックの貴族も相当数残っていた。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。これはマリ伯により鎮圧された。 メアリーは再婚相手について検討を始めた。候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク2世、フランスのヌムール公ジャック・ド・サヴォワなどだった。中でも特にメアリーが関心を示した相手は、有力なカトリック国スペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスであった。しかし、カトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世に政治的な動機で妨害されるなど、様々な理由から、いずれの相手とも結婚に至ることはなかった。 やがてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーとの結婚を考えるようになる。
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