帰国の動機と経緯
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田村に関する『青山学報』1992年(平成4年)3月号の記事は星新一の父星一がニューヨークで発行していたJapan and Americaという月刊新聞の1903年(明治36年)5月号からのものだったがテーマは日本の教育批判だった。田村は日本の教育界には批判的であり、自伝も紙数の大半は教育制度や問題点に費やされている。また、田舎出の田村は日本に有力な知己もなく、当時の田村にとって米国は居心地がよく家族も馴染んでいて帰国する気は失せていたと述懐している:p.290-292。田村は、帰朝後も家庭で英語を使っていたが:p.91、それは築地の海岸女学校半ばにして田村より4年も早く渡米していた妻が英語に馴染んでいたせいもある。 ところが、ワシントンの気象台に田村ありと日本でも知られるようになり、後に4代目中央気象台長になる岡田武松、北尾次郎と並ぶ草創期の気象学者で海洋学者の和田雄治、更に田村と同郷の寄生虫学者宮島幹之助が強く勧めたことが帰国の動機となった。岡田が東京高等師範学校の職を、和田が海軍大学校の気象学講義を譲る約束をし、宮島はワシントンを訪れたときも日本からの書簡でも田村にしばしば「早く帰れよ」と帰国を促している:p.292-295。
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