帰朝後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/30 22:16 UTC 版)
元の天暦2年(日本では元徳元年、1329年)5月、商船に便乗して博多へ帰朝。新たに日本へ来朝した明極楚俊・竺仙梵僊らや、同じく帰朝した天岸慧広・物外可什らと同船していた。その後鎌倉へ戻り、翌年には師一山の塔である建長寺玉雲庵の塔主となる。 その後元徳2年(1331年)、信濃諏訪神社の神官で豪族である金刺満貞に招かれ、信濃へ赴く。また同地の神為頼に請われて徳雲寺開山となる。さらに翌年には京都の小串範秀という武士に招かれ、嵯峨の西禅寺住職となる。また建武元年(1334年)には豊後大友氏に招かれ、府内の万寿寺に転じ、3年住した。ふたたび京都へ上り栂尾に隠棲したが、播磨守護赤松円心が小串範秀の推薦を受け、円心が建立した法雲寺の開山として招く。紅葉に映える千種川の清流をかつて幽囚されていた蜀(成都)の錦江になぞらえ、山号を金華山とした。 暦応3年(1340年)足利尊氏・直義兄弟は、京都の万寿寺の住職として雪村を招請したが、雪村は病気(中風)により再三固辞する。しかし数年にわたる円心の熱心な願いに折れ、康永2年(1343年)8月ついに万寿寺の住持となった。ただしわずか1年で辞し、翌年には東山の清住庵に移り住んだ。この頃より中風の症状が重くなり、摂津有馬温泉で療養している。 しかし、貞和元年(1345年)2月、今度は朝廷によって建仁寺の住持を命じられ、就任。盛大な入山式が執り行われ、雪村の名声により宗儀は大いに振るった。翌年11月法兄の石梁仁恭の十三回忌法会の導師を務めるが、楞厳呪第五段の焼香三拝に至って右半身不随となる(脳卒中による麻痺か)。朝廷や武家が派遣した医師や薬をすべて断り、12月2日遺偈を左手で書こうとしたが、うまく字にならず、怒って筆を投げつけ、周囲が墨だらけになる中、示寂した。享年57。
※この「帰朝後」の解説は、「雪村友梅」の解説の一部です。
「帰朝後」を含む「雪村友梅」の記事については、「雪村友梅」の概要を参照ください。
帰朝後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:09 UTC 版)
帰国後に起きた征韓論争においては、大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。このため、明治7年(1874年)2月に征韓論を唱えた江藤新平らが起こした佐賀の乱においては、政府軍の側に立って鎮圧に尽力した。まず、故郷・武雄の元領主鍋島茂昌(しげはる)やその家臣であった士族を説諭し、反乱への呼応を抑止した。また、自らは、2月12日、長崎に入り、海軍警備兵を率いて大村、武雄を経て3月1日に佐賀に入城、乱の鎮圧に当たった。なお、佐賀の乱の際、武雄は反乱軍の脅迫に屈し64名の兵士をやむなく乱に派遣していたため問題となったが、尚芳は、鍋島茂昌が新政府軍に提出する予定の謝罪文を添削するなど武雄の罪を免ずるために努力している。 明治8年(1875年)4月、元老院議官。明治13年(1880年)には元老院幹事となり、会社並組合条例審査総裁となる。明治14年(1881年)5月、前年に設置された会計検査院の初代院長に就任し、7月に勲二等に叙せられる。しかしながら、大隈重信が新政府から追放された明治十四年の政変の影響で、同年10月に会計検査院長の職を辞し、参事院(内閣法制局の前身)の議官となり外務部長兼軍事部長に任ぜられる。明治15年(1882年)から明治16年(1883年)にかけては、戒厳令、清韓両国在留ノ御国人取締規則、徴兵令改正案が元老院審議に付されるに当たり内閣委員に命ぜられる。明治18年(1885年)10月、正四位に叙され、12月、参事院が廃された後は再び元老院議官となる。明治19年(1886年)10月、従三位に叙され、明治20年(1887年)2月、高等法院陪席裁判官となる。明治23年(1890年)9月29日、貴族院議員に勅選され、同年10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた。 明治27年(1894年)5月、重病に当たり正三位に叙せられ、6月12日、死去。享年56(満54歳没)。勲一等瑞宝章を受章。墓所は青山霊園。 なお、山口尚芳の屋敷跡は武雄市の花島にあり、現在は公民館の敷地となっている。また、公民館の横には、昭和5年(1930年)に地元の有志により建設された記念碑が立っている。
※この「帰朝後」の解説は、「山口尚芳」の解説の一部です。
「帰朝後」を含む「山口尚芳」の記事については、「山口尚芳」の概要を参照ください。
- 帰朝後のページへのリンク