帰洛後の活動
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『御湯殿上日記』天正8年(1580年)1月24日の記事に「あきまさ」という記述が登場するのが、日本側の一次史料における在昌の初出である。同2月17日の記事には、「おんようのかみあきまさ」と記述があることから、遅くともこの時点までに在昌は陰陽頭に叙任されていたことが分かる。 天正9年(1581年)10月19日、従五位上に叙せられる。 同年、いわゆる天正十年改暦問題が起こり、翌天正10年(1582年)1月29日、在昌と土御門久脩は織田信長の居城・安土城に召され、共に京暦側の代表者として三島暦の推進者と討論した。 天正18年(1590年)4月、方広寺大仏殿の着工に先立つ地鎮祭を斎行。時の天下人・豊臣秀吉に重用されていたことが伺える。 慶長4年(1599年)3月26日には従四位下に叙せられる。それからほどなく、慶長4年(1599年)8月、『歴名土代』によると80歳、『系図纂要』によると81歳にて没した。
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