帰国と死まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 09:46 UTC 版)
キモンの追放の後、アテナイとスパルタとの間で戦争が勃発した(第一次ペロポネソス戦争)。このためにアテナイはキモンの手腕を必要とし、紀元前451年にキモンを呼び戻した。そして自身がスパルタと主客関係を結んでいたこともあってか彼はスパルタとの間に5年の休戦条約を締結した。 翌年、キモンはキュプロス島のギリシア諸都市のペルシアへの反乱を助けるためにキュプロス遠征を提案し、自ら200隻の艦隊を率いてキュプロスへと向かった。彼は60隻を同じくペルシアと戦っていたアミュルタイオス王のいるエジプトに送り、残余の部隊をギリシア諸都市の援軍として用いた。彼はキュプロスの大部分を制圧した後キティオンを包囲した(キティオン包囲戦)が、その途中に病死した。彼の死後、遠征軍は撤退を決定し、サラミスの海戦でペルシア軍を破った後帰国した。 キモンはその後アテナイに葬られた。人々は彼の死を大変悲しみ、記念碑を立てた。生前よりキモンは大変気前の良い人物であり、自分の農地に柵を儲けずにそこの収穫物を人に好きなだけ取らせたり、食事を施すなどした。コルネリウス・ネポスによれば、彼の財の恩恵を受けぬ者はいなかったという。
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