帰国と戦後の活動とは? わかりやすく解説

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帰国と戦後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:43 UTC 版)

野坂参三」の記事における「帰国と戦後の活動」の解説

野坂第二次世界大戦終了後1946年昭和21年1月12日に、中華民国から(直行帰ったになっていたが、ソ連経由であった事が後に判明日本に帰国し、26日日比谷公園参加者3万人による帰国歓迎大会開催される大会委員長山川均司会荒畑寒村のほか、日本社会党委員長片山哲登壇尾崎行雄メッセージなど、党派超えて集まり民主戦線樹立目標とすることが宣言された。この大会のために『英雄還る』という曲が作られ声楽家四家文子壇上熱唱した。また薄田研二は「同志野坂帰る」ではじまる歓迎詩を朗読した先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室容認した中央委員会との共同声明発表した。また在満邦人困窮無視した講演での発言発端になって、のちに葫芦島在留日本人大送還開始された。 府中刑務所から解放されていた徳田球一らと、日本共産党再建を果たす。4月10日戦後初の第22回衆議院議員総選挙東京都第1区大選挙区)から当選した新憲法制定審議では、自衛権保持観点から政府草案反対し、憲法前文に「主権国民存する」との文言追加するよう主張したソ連シベリア抑留帰国に関する手紙で、ソ連シベリア抑留肯定延長求め文面があり、それを元に国会で大々的追及される。1950年昭和25年)に日本共産党コミンフォルムから平和革命路線批判され内部分裂した際には、徳田とともに所感派指導者となり、宮本顕治らの国際派対立GHQチャールズ・L・ケーディス親しくしていたが、レッドパージ及び団体等規正令出頭命令拒否したことによる団規令事件逮捕状出され地下潜行中華人民共和国亡命北京機関)して武装闘争路線を採った。 1955年昭和30年)に帰国して国際派和解し六全協武装闘争路線否定して第一書記就任する8月11日には団体等規正令違反逮捕された。同月16日釈放される9月7日在宅起訴された。1956年昭和31年)に東京都選挙区から参議院議員当選1977年まで4期(うち1期3年議員)にわたって参議院議員務めた1958年昭和33年)に共産党議長となり、宮本書記長となった団規令事件関連して松本三益1961年12月最高裁免訴判決確定したことにより、1962年3月野坂公訴棄却となった1982年昭和57年7月第16回大会退任し以後名誉議長となった

※この「帰国と戦後の活動」の解説は、「野坂参三」の解説の一部です。
「帰国と戦後の活動」を含む「野坂参三」の記事については、「野坂参三」の概要を参照ください。

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