日本社会党委員長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/29 14:23 UTC 版)
日本社会党中央執行委員会委員長(にっぽんしゃかいとうちゅうおうしっこういいんかいいいんちょう)は、1945年から1996年にかけて存在した日本社会党の最高責任者であり、党首に相当する。
概要
日本社会党委員長からは片山哲、村山富市の2人の内閣総理大臣を輩出している。55年体制下では、野党第一党の党首として、その言動が注目された。
当初は党大会の代議員の投票で選ばれていたが、1978年からは党員による直接選挙で選んだ。
日本社会党の最高責任者ではあるが、委員長の統制力はそれほど強くなかった。党内では左派と右派が対立しており、これをまとめるため委員長が左派右派いずれかであれば書記長はその反対派から出すといった慣例があり、書記長以下の執行部役員はそのようなバランスを考慮して党大会が選出し、委員長とは考えの異なる人物が役員に選出されることが多かった。1977年の第41回続開大会で委員長指名で無任所の中央執行委員を任命することが認められた。
浅沼稲次郎暗殺事件後、書記長から委員長代行に昇格した江田三郎は正式には委員長に就任したことはないが、党史などでは委員長と同格に扱っている。
1996年、日本社会党は社会民主党と名を改めたが、社会民主党では最高責任者は委員長ではなく、党首と呼ばれている。
日本社会党委員長の一覧
代 | 委員長 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
日本社会党中央執行委員長 | |||
1 | ![]() |
片山哲[1]![]() ![]() ![]() |
1946年9月28日 - 1950年1月16日 |
日本社会党中央執行委員長(左派) | |||
- | ![]() |
鈴木茂三郎 | 1951年1月19日 - 1955年10月12日 |
日本社会党中央執行委員長(右派) | |||
- | ![]() |
河上丈太郎[1] | 1953年1月18日 - 1955年10月12日 |
日本社会党中央執行委員長(左右統一) | |||
2 | ![]() |
鈴木茂三郎 | 1955年10月13日 - 1960年3月21日 |
3 | ![]() |
浅沼稲次郎[2] | 1960年3月23日 - 1960年10月12日 |
- | ![]() |
江田三郎(委員長代理) | 1960年10月12日 - 1961年3月6日 |
4 | ![]() |
河上丈太郎 | 1961年3月6日 - 1965年5月6日 |
5 | ![]() |
佐々木更三 | 1965年5月6日 - 1967年8月19日 |
6 | ![]() |
勝間田清一 | 1967年8月19日 - 1968年10月4日 |
7 | ![]() |
成田知巳 | 1968年11月30日 - 1977年12月13日[3] |
8 | ![]() |
飛鳥田一雄 | 1977年12月13日 - 1983年9月7日 |
9 | ![]() |
石橋政嗣 | 1983年9月7日 - 1986年9月8日 |
10 | ![]() |
土井たか子 | 1986年9月8日 - 1991年7月31日 |
11 | ![]() |
田邊誠 | 1991年7月31日 - 1993年1月19日 |
12 | ![]() |
山花貞夫![]() |
1993年1月19日 - 1993年9月25日 |
13 | ![]() |
村山富市![]() ![]() ![]() |
1993年9月25日 - 1996年1月19日 |
日本社会党委員長選挙の結果
委員長ポストは、事前の派閥間の話し合いで決まってしまうことが多く、無投票や全会一致による選出で決まったこともあったため、委員長選挙はそれほど多くない。
投票日 | 結果 |
---|---|
1960年3月24日 | 浅沼稲次郎 228票、河上丈太郎 206票 |
1966年1月22日 | 佐々木更三 295票、江田三郎 276票 |
1966年12月9日 | 佐々木更三 313票、江田三郎 274票 |
1970年12月2日 | 成田知巳 207票、江田三郎 148票 |
1981年11月27日 | 飛鳥田一雄 39379票、武藤山治 14721票、下平正一 3425票 |
1986年9月6日 | 土井たか子 58670票、上田哲 11748票 |
1991年7月30日 | 田邊誠 46363票、上田哲 36358票 |
1993年9月20日 | 村山富市 65446票、翫正敏 18075票 |
1996年1月17日 | 村山富市 57591票、秋葉忠利 10440票 |
脚注
関連項目
日本社会党委員長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:06 UTC 版)
1986年、衆参同日選挙の惨敗を受けて石橋政嗣委員長が引責辞任すると、同年9月、副委員長から昇格し第10代社会党委員長に就任。党史上初の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首であった。書記長は山口鶴男。前・石橋体制の末期に階級政党からの脱皮と国民政党への指向をうたう「日本社会党の新宣言」が難航の末に採択されたばかりでそのしこりもあり、従来の社会党委員長同様に党内の左右対立をまとめる党運営が求められた。しかし、土井のはっきりした物言いのキャラクターが一般からの好感を獲得したことが土井の立場を後押しした。 時の首相は、改憲論者として知られる中曽根康弘であったが、土井は護憲・軍縮を掲げてこれに対抗。しかし中曽根は改憲の動きには出ないものの、社会党が堅持を強く求めていた防衛費1%枠を撤廃している。一方で内閣が提出した売上税法案に対しては社公民および社民連の4党統一組織を構築して抵抗、その間に行われた参議院岩手補選と第11回統一地方選挙で勝利し、廃案に追い込んでいる。中曽根から政権を引き継いだ竹下登は消費税導入を強行するが、土井は消費税導入およびリクルート事件を激しく追及、宮澤喜一大蔵大臣を辞任させ、そして竹下内閣を退陣に追い込む。 1989年の第15回参院選では、消費税・リクルート事件の追及の際に強化された社公民路線を基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制を構築する。結果、社会党が改選議席の倍以上を獲得、改選分では社会党が第一党、総議席では自民党が過半数割れの比較第一党という結果となる。これは土井の個人的人気に支えられた面も大きく、「土井ブーム(おたかさんブーム)」と評された(新人女性議員の当選が目立った点からは「マドンナブーム(旋風)」とも呼ばれた)。この時の土井の「山が動いた」も名文句として有名になった(与謝野晶子の詩「そぞろごと」冒頭「山の動く日来たる」をふまえている)。 選挙後も社公民路線を維持し、与野党が逆転した参議院での主導権を握る。その皮切りとして女性初の参議院内閣首班指名を受けた(衆議院の優越により、首相には衆議院で指名された自民党総裁の海部俊樹が41年ぶりの両院協議会(不一致)を経て就任)。また、消費税廃止公約が参院選大勝の要因であったこともあり、消費税廃止法案を社会党・公明党・連合の会・民社党の4党で提出し、12月11日、参議院で可決・通過させた(衆議院で廃案)。 1990年の第39回総選挙でもブームは続き、土井は総選挙で180人の候補を擁立する計画を立てたものの、中選挙区制で目標を満たすには複数候補の擁立が必須になることから、2人目を立てる対象になった選挙区の現職候補や、他の野党などから反発が起きた。また資金難から勧誘した人物と条件が折り合わないことも多く、実際の候補者は149人に留まった(他に無所属として推薦7、公認漏れ3)。それでも総選挙の結果、社会党は136議席(他、追加公認3で139議席)と51議席増やした。しかし、自民党も275議席(他、追加公認11で286議席)と安定多数を維持した。さらに、野党内での社会党の一人勝ちに公明党、民社党は距離を置き、両党は連合政権協議を打ち切り、自公民路線に舵を切った。そのため前回の参議院内閣首班指名の際と参議院の構成はほぼ変わっていないにも拘らず、両党が決選投票で棄権したため、今度は海部が参議院でも首班指名を受けることとなった。 1991年の第12回統一地方選挙で社会党は敗北し、土井は委員長を引責辞任した。
※この「日本社会党委員長」の解説は、「土井たか子」の解説の一部です。
「日本社会党委員長」を含む「土井たか子」の記事については、「土井たか子」の概要を参照ください。
- 日本社会党委員長のページへのリンク