日本社会党国際局長として
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「河上民雄」の記事における「日本社会党国際局長として」の解説
1977年12月17日から19日まで社会主義インターナショナル首脳会議が東京で開催されることになった。しかし、その責任者であった日本社会党国際局長の田英夫が同年9月27日に離党したため、河上が国際局長の職務を引き継いだ。同年12月13日の第41回続開大会で正式に国際局長に選任され、社会主義インターナショナル東京首脳会議を成功させた。以後、1982年まで国際局長を務めた。 当時、日本社会党は社会主義インターナショナルと疎遠になっており、社会主義インターナショナルの会議に日本社会党は国際局の書記クラスを派遣していたが、河上は出来るだけ自ら参加するようにして、社会主義インターナショナルにおける日本社会党の発言権を高めようと尽力した。 1980年の社会主義インターナショナル第15回大会では、でっちあげ裁判で死刑を宣告されていた金大中の名を議長の総括演説に盛り込むよう主張し、ヴィリー・ブラント議長に総括演説で「金大中を殺してはならない」と叫ばせることに成功した。こうした国際圧力で金大中の死刑は回避され、後に金大中は釈放された。
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