帰国から天龍寺時代と南禅寺時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:45 UTC 版)
「愚中周及」の記事における「帰国から天龍寺時代と南禅寺時代まで」の解説
博多に到着し、前年に帰国して幕府の指示を待っていた、同じく留学僧の龍山徳見(1284年-1358年)と共に京都へ向かった。そして天龍寺の夢窓疎石にその弟子を通じて「法嗣を易えし事」の報告をして了解を得た。既に老齢になっていた師の夢窓疎石は愚中周及を迎え入れ、掛搭を許した。その時天龍寺に滞在していた元の僧侶の東陵永璵との通訳に愚中周及をあてた。そして元の江南から帰国した僧から、師匠の即休契了遷化の訃報を聞いたのである。同じ年には日本での師の夢窓疎石が遷化し、多くの会下の僧が天龍寺を去って行ったが、愚中周及は師の夢窓疎石の恩徳に報いるため、天龍寺の臨川寺に留まった。 正平8年(1353年)、龍山徳見が南禅寺の住職となって、愚中周及を書記に請じた。そして龍山徳見の補佐をしたのである。龍山徳見の結制が行われ、愚中周及が秉払説法をしたとき、師の即休契了から嗣法したことで難を受けたため、遂に五山を去ることとなった。それから以後は、京都の地に足を踏み入れることがなかった。
※この「帰国から天龍寺時代と南禅寺時代まで」の解説は、「愚中周及」の解説の一部です。
「帰国から天龍寺時代と南禅寺時代まで」を含む「愚中周及」の記事については、「愚中周及」の概要を参照ください。
- 帰国から天龍寺時代と南禅寺時代までのページへのリンク