帰国と晩年
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文化大革命終了後の1979年、中国は喬石の決断で伊藤の釈放を決定し、12月に伊藤は病院に移された。翌1980年3月に退院後、6月には妻へ手紙を送った。7月31日に時事通信が伊藤の健在を伝え、8月23日、中国政府は伊藤が中国で生存していることを公式に発表、9月3日に29年ぶりに帰国した。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていた。 日本政府は帰国した伊藤の刑事訴追について「1950年7月に団体等規正令に基づく出頭命令に応じなかったことにより団体等規正令違反容疑で逮捕状が発せられていたが、1952年の平和条約発効後に犯罪後の法令により刑が廃止されたときに当たるとする最高裁判例が確立しているため、団体等規正令違反容疑で処罰できない。また、法律の定める手続を経ないで出国していることが認められるが、出入国管理令は1951年11月1日に施行をされており、それ以前は連合国最高司令官覚書や昭和25年政令第325号が密出国を規制していたが、1951年12月1日に廃止されているため、1951年10月31日以前の密出国は犯罪後の法令により刑が廃止されたときに当たり処罰できない。そのため、1951年11月1日以降の密出国であれば処罰できるが、1951年10月31日以前の密出国では処罰できず、伊藤の密出国が1951年11月1日以降という証拠がないため処罰できない」と答弁し、刑事訴追は行われなかった。 帰国後、かつての同志だった小松雄一郎に「獄中27年の記録」を語り、これをもとに朝日新聞は1980年12月に山本博記者による「故国の土を踏みて」という証言録を掲載した。さらにこれに加筆したものが『週刊朝日』にも連載されて『伊藤律の証言』として出版された(ただし伊藤自身はその公表の過程を納得せず認めなかった)。こうした伊藤側の発言に対し、日本共産党は生存が伝えられた直後から「1955年の除名処分は正しく、伊藤はスパイである」という従来からの主張を「赤旗」などで繰り返したが、その証拠については明示しなかった。 帰国後、伊藤は自らが不在の間に尾崎秀樹や川合貞吉によって広められた「ゾルゲ事件発覚の発端・警察のスパイ」という言説を目にして彼らへの憤りを覚えた。当時の書簡では尾崎秀樹を「伊藤をスパイにせねば飯が食えず、せっかく売り出した面子がなくなる作家が今でも何人かいる。その大なる者が秀樹です」「尾崎(秀実)さんに対する私の心境や評価を秀樹君に語ってもムダです。わかる筈のない人で、ただ原稿稼ぎのネタにされるだけ」と痛烈に批判している。 伊藤の除名処分を日本に伝えた藤井冠次は、伊藤の帰国直後に『伊藤律と北京・徳田機関』(三一書房)という北京機関の内幕を「暴露」した本を刊行した。しかし、この本の多くの部分は野坂参三からの聞き取りや自らの伝聞に基づく内容をさも自らが直接体験した事実であるかのように記したものであった。生存・帰国の事実を知り、自らは処分の決定者ではないが「一部始終に立ち会った証人として」伊藤の処分が不当・過酷で納得できないと思うようになり、自分も加害者になるのではないかという悩みにとらわれて病に倒れた。藤井は、伊藤の生還を知りながら弁明を聞かずに本を出したことも含めた反省の書簡を伊藤に送り、その後伊藤との間で手紙が交わされた。伊藤は藤井の本について「本人の弁明を無視したのは、ジャーナリズムの初歩原則にも反する」「本人の弁明・反論を許さない(党の)細胞会議の話は事実でも話自体の証拠能力は不十分」と批判する一方、藤井個人は「党中央の命に忠実に動いただけで自責の念にかられるには及ばない」とし、「西沢隆二の話をその通り伝え、今も信じている貴兄に勿論責任はなく、その犠牲者・被害者です。私は貴兄に同情を禁じ得ない」とその立場を思いやった。藤井はその後、『伊藤律と北京・徳田機関』が野坂参三の謀略にのせられたことへの謝罪と訂正の意を込め、北京での真実を綴った『遠い稲妻 伊藤律事件』(驢馬出版、1986年)を限定版で出版した。 伊藤は『徳田球一全集』(五月書房、1985年 - 1986年)の編集にも協力し、第四巻では志賀義雄に代わって解説文を書いた。1981年からは自らの手で中国時代の回想録を執筆した(死後の1993年、『文藝春秋』に「日本のユダと呼ばれた男」として3回に分けて掲載後、『伊藤律回想録』として刊行)。1988年にはゾルゲ事件と自らとの関わりを記した「ゾルゲ事件について」を記している(没後、『偽りの烙印』に掲載)。社会への関心は失わず、高尾山への首都圏中央連絡自動車道建設反対運動にも参加していた。1989年8月7日、腎不全のため死去(76歳)。亡くなる4日前には見舞客に対し「中国の民主化運動をどう思うか」と語っていたという。
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帰国と晩年
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「ウィリアム・インブリー」の記事における「帰国と晩年」の解説
1919年(大正8年)11月5日に明治学院神学部教授を辞任して名誉教授となった。 1922年(大正11年)12月3日にインブリー夫妻は日本を離れ、その年の冬をカリフォルニア州で過ごした。翌1923年春から長男マルコムが住むシカゴに移り、同地で余生を送っていたが、1928年8月4日にシカゴ郊外のエバンストンにある病院で亡くなった。83歳没。イリノイ州スコキー(英語版)のメモリアルパーク墓地に埋葬された。夫人のエリザベスは1931年3月24日に次男チャールズの牧会の地であるニューヨーク州キングストンで亡くなり、夫の隣に埋葬された。
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