帰国と晩年とは? わかりやすく解説

帰国と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 01:05 UTC 版)

伊藤律」の記事における「帰国と晩年」の解説

文化大革命終了後1979年中国喬石決断伊藤釈放決定し12月伊藤病院移された。翌1980年3月退院後、6月には妻へ手紙送った7月31日時事通信伊藤健在伝え8月23日中国政府伊藤中国生存していることを公式に発表9月3日29年ぶりに帰国した帰国時は伊藤67歳車椅子乗っていた。 日本政府帰国した伊藤刑事訴追について「1950年7月団体等規正令に基づく出頭命令応じなかったことにより団体等規正令違反容疑逮捕状が発せられていたが、1952年平和条約発効後に犯罪後の法令により刑が廃止されたときに当たるとす最高裁判例確立しているため、団体等規正令違反容疑処罰できないまた、法律の定め手続経ない出国していることが認められるが、出入国管理令1951年11月1日施行をされており、それ以前連合国最高司令官覚書昭和25年政令325号が密出国規制していたが、1951年12月1日廃止されているため、1951年10月31日以前密出国犯罪後の法令により刑が廃止されたときに当たり処罰できない。そのため、1951年11月1日以降密出国であれば処罰できるが、1951年10月31日以前密出国では処罰できず、伊藤密出国1951年11月1日以降という証拠がないため処罰できない」と答弁し刑事訴追行われなかった。 帰国後、かつての同志だった小松雄一郎に「獄中27年記録」を語り、これをもとに朝日新聞1980年12月山本博記者による「故国土を踏みて」という証言録を掲載した。さらにこれに加筆したものが『週刊朝日』にも連載されて『伊藤律証言』として出版された(ただし伊藤自身はその公表過程納得せず認めなかった)。こうした伊藤側の発言対し日本共産党生存伝えられ直後から「1955年除名処分正しく伊藤スパイである」という従来からの主張を「赤旗」などで繰り返したが、その証拠については明示しなかった。 帰国後、伊藤は自らが不在の間に尾崎秀樹川合貞吉によって広められた「ゾルゲ事件発覚発端警察スパイ」という言説を目にして彼らへの憤り覚えた当時書簡では尾崎秀樹を「伊藤スパイにせねば飯が食えず、せっかく売り出した面子がなくなる作家今でも何人かいる。その大なる者が秀樹です」「尾崎(秀実)さんに対する私の心境評価秀樹君に語ってムダです。わかる筈のない人で、ただ原稿稼ぎネタにされるだけ」と痛烈に批判している。 伊藤除名処分日本伝えた藤井冠次は、伊藤帰国直後に『伊藤律北京徳田機関』(三一書房)という北京機関内幕を「暴露」した本を刊行した。しかし、この本の多く部分野坂参三からの聞き取りや自らの伝聞に基づく内容をさも自らが直接体験した事実あるかのように記したものであった生存帰国事実知り、自らは処分決定者ではないが「一部始終立ち会った証人として」伊藤処分不当過酷納得できない思うようになり、自分加害者になるのではないかという悩みとらわれて病に倒れた藤井は、伊藤生還知りながら弁明聞かずに本を出したことも含めた反省書簡伊藤送りその後伊藤との間で手紙交わされた。伊藤藤井本について本人弁明無視したのは、ジャーナリズム初歩原則にも反する」「本人弁明反論許さない(党の)細胞会議の話は事実でも話自体証拠能力は不十分」と批判する一方藤井個人は「党中央の命に忠実に動いただけで自責の念かられるには及ばない」とし、「西沢隆二の話をその通り伝え、今も信じている貴兄に勿論責任はなく、その犠牲者被害者です。私は貴兄同情禁じ得ない」とその立場思いやった。藤井その後、『伊藤律北京徳田機関』が野坂参三謀略のせられたことへの謝罪訂正の意を込め北京での真実綴った『遠い稲妻 伊藤律事件』(驢馬出版1986年)を限定版出版した伊藤は『徳田球一全集』(五月書房1985年 - 1986年)の編集にも協力し第四巻では志賀義雄に代わって解説文を書いた1981年からは自らの手中国時代回想録執筆した死後の1993年、『文藝春秋』に「日本ユダ呼ばれた男」として3回分けて掲載後、『伊藤律回想録』として刊行)。1988年にはゾルゲ事件と自らとの関わり記したゾルゲ事件について」を記している(没後、『偽りの烙印』に掲載)。社会への関心失わず高尾山への首都圏中央連絡自動車道建設反対運動にも参加していた。1989年8月7日腎不全のため死去76歳)。亡くなる4日前に見舞客に対し中国民主化運動をどう思うか」と語っていたという。

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帰国と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:38 UTC 版)

ウィリアム・インブリー」の記事における「帰国と晩年」の解説

1919年大正8年11月5日明治学院神学部教授辞任して名誉教授となった1922年大正11年12月3日インブリー夫妻日本離れ、その年の冬カリフォルニア州過ごした。翌1923年春から長男マルコムが住むシカゴ移り同地余生送っていたが、1928年8月4日シカゴ郊外エバンストンにある病院亡くなった83歳没。イリノイ州スコキー(英語版)のメモリアルパーク墓地埋葬された。夫人エリザベス1931年3月24日次男チャールズ牧会の地であるニューヨーク州キングストン亡くなり、夫の隣に埋葬された。

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