ツワナ人政党の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
「ボツワナの歴史」の記事における「ツワナ人政党の結成」の解説
ボツワナ独立の最大の功労者は1921年生まれのセレッツェ・カーマである。カーマ3世の孫であり、生まれながらにングワトの首長の後継者であった。見聞を広めるため、まず南アフリカ共和国で、次にイギリス本国で教育を受けた。1948年、カーマはイギリス人女性と結婚する。1949年にベチュアナランドに帰国すると王位を継承する手はずになっていたが、異人種間の結婚を認めない周囲のアパルトヘイト国家が介入をほのめかし始めた。貴族集団や叔父にも反対されてしまう。イギリス政府はセレッツェ・カーマと叔父のツェケディ・カーマの対立から王位継承者のセレッツェ・カーマをイギリス本国に呼びだし、王位をあきらめない限り帰国を許さなかった。イギリスはアパルトヘイト国家群への影響力が低下することだけを心配していた。セレッツェ・カーマが帰国できないことが分かると、ングワトの植民地政府に対する態度が硬化し始めた。1956年に至りセレッツェ・カーマ自ら王位の継承よりも自治確立を優先し、王位をあきらめ、帰国した。 同年、ングワト議会の副議長に就任、1962年にはベチュアナランド民主党、後のボツワナ民主党を結成した。ただし、セレッツェ・カーマの帰国以前にツワナ人の政党活動は始まっている。ヨハネスブルグの聖職者であったフィリップ・G・マタンテとマラウイの教師K・T・モツェテは1960年にベチュアナランド人民党、後のボツワナ人民党を結成していた。ベチュワナランド人民党は急進的であり、白人入植者の追放、首長を中心とする伝統的政治体制の打破、憲法制定を主張していた。 カーマのボツワナ民主党は当初ングワトの政党であったが、穏健な政策が共感を呼び、全国的な支持を集めた。カーマはヨーロッパに対する反感を頻繁ではなかったが表明することがあった。南アフリカ共和国への併合を恐れた人々はカーマの姿勢を評価した。ベチュアナランドの白人入植者は消極的ではあったがボツワナ民主党を支持した。肝心のイギリスもカーマならコントロールできると考えた。1963年、イギリスはベチュアナランド独立の予定を公開、1964年にはベチュアナランドの選挙人を登録した。1965年、ベチュアナランド最初の議会選挙が実施された。カーマの評判はよく、彼のボツワナ民主党は8割の票を集め、議会の定員31議席中28議席をしめた。カーマはベチュアナランド最初で最後の首相となり、独立に向け準備を整えていった。
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